十種神宝 学校の基礎・基本

公立の義務教育の学校に永きにわたりお勤めだった稗田先生の、若い先生方への昔語りです。学習指導要領や、それに伴って変わってきた先生たちの意識や授業のことなど、教育現場に起こってきた今や昔のことどもを書き記していきます。

 義務教育の現場に長くお勤めだった稗田先生からお聞きしたことどもを、拙いながらもまとめてみました。
 不易流行という言葉があります。この、教育の"流行"の中から、自分だけの"不易"を見つけていただければ、これに過ぎる慶びはありません。
                                   十種神宝 主人 太安万侶

 このブログで紹介した教材の学習プリントをおわけします。興味のある方はこちらをご覧下さい。https://kandakara.booth.pm/

 国語関係の記事は、「十種神宝 中学国語 学習の手引き」の下書きになっています。興味のある方はこちらをご覧下さい。https://y-oono.jimdofree.com/

パソコンを本格的に授業に使うようになったのは、2校目からです。

東京ディズニーランドが開園し、子ども達を修学旅行でつれていってあげようとしたのを覚えています。
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「かくれた数はいくつ」の単元では、あらかじめy=x+3の数式を入れておいて子どもが1と入力すると大きく4という数字が表示されるプログラムを組みました。
文章題の追いかけ算や出会い算では、問題を図式化し、距離が一分ごと変化するようなグラフィックを作り、答えの求め方を考えさせました。

当時はプロジェクターやHDMI端子なんかありません。
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OHPと言って透明シートをスクリーンに映す装置があるだけでした。

そこで子ども達をパソコンの前に集めたり、パソコンの画面をビデオカメラを通して教室のテレビに映して教材提示をしていました。
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すべて「授業のこの場面で、こういう教材があったらいいのにな。」と必要があって、実際に授業でどう使うか、自分や子どもの細かな動きも考えながらBASICを汲みました。

私は文系ですから、少し複雑なプログラムを組むのに夏休み中かかったのを覚えています。

現在GIGAスクール構想というのが進んでいると言われています。
「子供たち一人ひとりに個別最適化され、創造性を育む教育ICT環境の実現に向けて、令和時代のスタンダードとしての1人1台端末環境を実現する」というものです。
国が多額の補助金を出し、市町村の教育委員会も積極的に取り組もうとしているようです。

ICT(Information and Communication Technology)とは情報通信技術のこと。
ICT教育とは、パソコンやタブレット端末、インターネットなどの情報通信技術を活用した教育手法のことです。

例えば……

教室のプロジェクタに図表を拡大投影したり、
パソコン教室でインターネットを使って調べ学習をしたり、
電子黒板に計算問題を掲示し書き込みながら解き方を説明したり、
生徒がタブレットで作った発表資料を一瞬でクラス全員の端末に共有したり……

「ひと昔前には考えられなかった教育活動」と文科省のHPには載っています。
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しかしこれらはICTを活用しなければ絶対に不可能なことなのでしょうか。
東京ディズニーランドが開園した四昔、
インターネットや電子黒板、タブレットはありませんでしたが……。

ICT環境(パソコン、タブレットなど)の整備は学習指導要領にも載せられ「これらを適切に活用した学習活動の充実を図ること」と示されました。
小学校のプログラミング学習では「様々な教科・学年・単元で取り入れ」「各学校の創意工夫により、様々な単元等で積極的に取り組む」ことが望まれており、それぞれの学校である程度、自由に実施することになっています。
「これをする」といった授業の具体的な内容は決まっていないのが現状なのです。

機器は飛躍的に進歩しました。
しかし私たちは機器を使いこなすのであって、機器に使われる授業はしてはいけないと思います。

「どうしてもこういう授業したい。そのためにはこういう教材が欲しい」という強い願いがなくてはいけません。

機器を使うために授業をするのは本末転倒です。
機器を使って授業をするのであって、機器に使われて授業をしてはいけません。
私たちは、経済産業省のために授業をしているわけではないのです。

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昭和52年の学習指導要領改訂によって「ゆとりと充実を」をキャッチフレーズに「学校が創意を生かした教育活動」を週1時間行うこととなりました。
実際に運用されたのは私が勤め始めた頃からです。当時は「学裁(学校裁量の時間)」と言われ、学校毎にいろいろな名前をつけていました。

いったいどんなことをしたらいいのか、誰もわかりませんでした。
「行事の事前学習に充てたらいいんじゃないか」「ドリルなどの授業では十分にやらせることができない内容をやろう」という考えもあったと思いますが、それは声にはなりませんでした。

信州教育は、時流に先立ってそれをバカ正直に実行しようとする癖があるようです。

例えば大正デモクラシーの時代に「信州白樺教育」と呼ばれる自由主義的な教育が大流行したり、その影響を受けて教科書を使わない授業をした川井訓導が処分され、それを契機に満蒙開拓青少年義勇団を日本一送り出すようになったりと、とにかく極端なのです。
戦後も「先生デモやろう」「先生にシカなれない」といった「でもしか先生」たちを中心に単元主義教育が大流行しました。

この時流に先立つという伝統は「ゆとり教育」でも遺憾なく発揮され、子ども達の活動を中心に学習を組織し、文部省(現文部科学省)の意図を精一杯実現しようとしました。
いまにして思えば大正時代、長野師範で行われた淀川茂重杉崎瑢の研究学級の焼き直しです。

ちなみに研究学級の「教育は~児童のうちから構成されるべきものである。」(淀川茂重著「途上」)という実践は最初、長野県の生活科や総合的な学習の時間に受け継がれていたように感じます。

鳥インフルエンザやアレルギーななかった時代です。
当時、山羊やウサギ、ニワトリなどを飼うことが流行していました。
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しかし私の学級は何も飼っていませんでした。
前任の先生が「新卒の坊やに飼育はたいへんだろうから」と年度末にお別れしたのだそうです。

しかし、確か新卒2年目だったと思います。どなたか忘れてしまいましたが、学校に生きたカモシカを数頭寄贈してくださいました。
そしてどこかの学級がカモシカを飼わなくてはいけないことになり、私に白羽の矢が立ちました。
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子ども達はとても喜びました。
子ども達は全校からアンケートをとって名前を決め、餌を調べ、当番だけでなくみんなかいがいしく世話をしました。

しかしそんなことでシカが飼えるわけがありません。

学校に広い土地を確保してもらって柵を作り、栄養が偏ってはいけないということで配合飼料も買っていただきました。
獣医に連れて行ったこともあったような気がします。

何よりも困ったことは、シカの逃亡です。
柵は私の身長くらいあったのですが、シカにとってはハードル走のハードル程度の高さなのです。
シカは臆病な生き物ですから、夜何かに驚くとピョンと柵から飛び出してしまいます。
そのたび電話がかかって呼び出されました。

大人より大きな体のシカです。一人ではつかまえられません。
教員住宅にいる先生達に声をかけ手伝ってもらい、週に何度も大捕物をしました。

生き物を飼うと言うことは、とても大変なことなのです。

総合的な学習と聞くと、いつも「大正時代の実験学級とどこが違うんだろう」「戦後の単元学習とどう違うんだろう」と考えてしまいます。
どんなことでも、何か新しいことをしようとするとき、それは既に誰かがやったことかも知れません。

歴史は繰り返されるのです。

先人がどういうことをやって結果はどうだったのか。
それを知って自分の実践に生かしてこそ歴史は前へ進みます。
    新しいことを実践するのは素晴らしいことです。そんな授業をして欲しいと思います。若い人の特権です。そして……できたらでいいですから、同じようなことをした人はいないか、ちょっと調べてみるのもよいかも知れません。ネットで調べてもいいし、周囲の先生に聞いてもよいでしょう。そうすれば、あなたのアイディアが更にもう一歩前進すると思います。
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新卒当初は、みなさんと違ってなかなかうまく授業ができませんでした。
もともと中学校が主免なので、小学校の教材研究なんかまともにやったこともなかったのです。

まず困ったのは算数です。

当時、『Dr.スランプ アラレちゃん』や、女の子には『キャンディ キャンディ』男の子には『機動戦士ガンダム』(言うまでもなくファーストガンダムですよ……。)がとても人気でした。
そこで「アラレちゃんはガムを21まい、がっちゃんは7まい持っています。アラレちゃんの持っているガムのまい数は、がっちゃんの何倍ですか。」というように問題を書き換え似顔絵付きの説明図をつけたプリントを作りました。
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ガリ版で作るので最初は手間取りましたが、そのうち慣れました。
当時は著作権などあまりうるさくなかったのです。

そのうち子どもの似顔絵をその場で板書して問題にすることも覚えました。

学校中から牛乳瓶の蓋を学校中から集め、貼り合わせてプレスし、金の塗料をつけて金貨にして文章問題を考えるのに使わせたり、大きな数で一万枚の牛乳瓶の蓋を学校中の廊下につなげてはったり、一万円札の大きさの新聞紙を切って一億円分作りアタッシュケースに入れて教室で見せたこともしました。

「かくれた数はいくつ」や分数、追いかけ算、関数のグラフ等で、プログラムを組みパソコンを使って授業をしたのは次の学校に異動してからです。(教頭先生が怖かった……。)

社会の大量生産の学習では、トヨタの工場見学で簡単な自動車のプラモデルを大量にもらい部品毎にバラしたものを用意しました。
そして子ども達を二つのグループに分け、片方には最初から最後まで組み立てさせ、もう片方には流れ作業で組み立てさせて競争させました。
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また歴史の学習では縄文時代から大和朝廷成立までのシミュレーションゲームをしました。

シミュレーションゲームというと『信長の野望』のようなコンピューターゲームを思い浮かべますが、ボードゲームしかなかった時代です。

班を一つの部族とし各班に稲作がもたらされたところからゲームは始まります。
作付けの量を決め、それに応じた収穫量がサイコロによって決まります。
余剰分は保管でき食糧が尽きると部族は全滅します。
全滅しないように班で相談しながら進めますが、いざとなったら他の部族を侵略することもできます。
勝てば食糧を奪いその部族全員を奴隷(労働力)にできます。
戦闘は部族の人数比をもとにサイコロを振って勝敗を決めました。
複数の部族で結託する等の戦略は何でもありです。
更に大陸への朝貢が成功すると生産力や戦闘力が上昇します。

こんなルールを細かく考えてやらせたのです。
ゲームの終盤になると運の強い子がサイコロを振り、稲作を管理する子、武器を管理する子など役割分担ができました。
最後に女の子を中心としたグループと男の子を中心としたグループの対決となり、女の子グループが負けて号泣してしまって次の時間は授業になりませんでした。

国語では『たぬきの糸車』の劇を行うために糸車を博物館から借りてきてそれをもとに模型を作ったり、教室いっぱいの『くじらぐも』を作ったり、『スーホの白い馬』では馬頭琴を見たことのない子ども達のために、馬頭琴製作キットを取り寄せて白馬の骨や皮から作ったような色の馬頭琴を作ったりしたこともあります。
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「楽しくなければ授業ではない」というのが、当時の私の考えでした。
現在の私から考えると、助走をつけてグーで殴りつけるレベルの内容だったと思います。
学習指導要領はもちろん、教科や教材の本質をまったく無視した授業だからです。
しかし、子どものためにどこまで工夫することができるか、という点では弁解する余地があったと思います。

指導書どおりの授業は面白くありません。
それ以上に、そんな授業をやってもうまくいかないはずです。

是非みなさんには、本質に触れた(←ここ重要)授業のための工夫と努力を惜しまないでほしいと思います。

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新卒当時、民間のアパート等に入る人はほとんどいませんでした。
東京などの大都市ではありませんから、もともと民間のアパート等の数が少なかったのです。
マンションなどは大金持ちが入るものという認識がありました。

独身の先生はその学校のある所に住むのが当然だった時代ですから、どの地区にも教員住宅がありました。
独身者用の六畳と四畳半、キッチンと風呂場の狭い部屋でした。
住宅料はとても安く、補助もでました。地域によっては住宅料とほぼ同額の補助があり、光熱費を負担すればよかったのでとても助かりました。
それらの教員住宅は、私が小学校の時の担任の先生も入っていましたから、築後10年以上は経っていたと思います。
私は「ブロイラーのゲージ」と呼んでバカにしていました。
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その後25年ほど経って、それらの教員住宅は地域の方から「お化け屋敷」と呼ばれ、「子どもが遊びに来ると『先生ってものすごく貧乏なの?』と言われて恥ずかしい」と言われたことを思い出します。

現在では入居希望者が激減しているそうです。

新卒当時、教員住宅に帰っても教材研究以外は特にやることもありません。
そこで夜遅くまで教材研究と称して職員室に残っていました。
当時コンビニはまだ普及していませんでしたから、若い先生たちで誘い合って、よく近くの食堂へ遅い夕食を食べて帰りました。

みんな同じ住宅に住んでいる人ばかりです。
アルコールが入って、学校のことや授業のことなど、とてもたくさんの情報交換をしました。
私より何年か上の先生は「ワリカン」と言ってたくさんお金を払ってくれました。
もう少し上の先輩は、職員室の人間関係が学校の裏情報や、それよりもっと悪いこともたくさん教えてくださいました。(詳細は自主規制させていただきます。)

当時の私の学年主任は、白髪の定年間近のおじいさんでした。
おじいさんと言っても60歳定年が一般化したのは昭和60年に入ってからです。
ですからまだ55歳より若かったはずです。

もうあの主任は私よりずっと年下になってしまったのですね……泣

国語が専門で、古典に関する本を何冊も自費出版されていました。
本の執筆の調査で旅行するときは鞄持ちとして連れていかれました。費用はすべて主任持ちです。
また週に一日公民館で古典の講義をなさっていて、そこにも毎週つれていかれました。

講義はどんな内容だったか覚えていませんが講義は8時頃に終わり、その後必ず行きつけの居酒屋へ連れて行ってもらい、たらふく飲んだり食べたりさせていただきました。
国語の話になると酔っ払って「お前はカミソリだ。カミソリじゃダメだ。鉈になれ。」と頭をピシャピシャ叩かれ説教されました。

今になって考えると、きっと息子さんが会社員になって上京しまった主任にとって私は最後の弟子のような気がしていたのかな、と思います。(不肖の弟子です。)

現在アクティブラーニングというのが流行りです。
アクティブラーニングは主体的・対話的で深い学びを目指すものです。
その過程で、自分と異なる認識に触れることにより主体的に自分の認識を変容させるところがポイントです。

これには他者とのコミュニケーションが必須です。
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勤務時間という縛りがあり、また、プライベートを大切にするのが現在の風潮です。
しかし他人との積極的なコミュニケーションなしに認識の変容は期待できません。

アクティブラーニングを通じて子ども達にそれを求める以前に、私たちのコミュニケーションの機会が少なくなっているような気がしてなりません。
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「青焼き」というのは青写真のようなもので、今のコピーにあたります。
半透明のコピー用紙に原稿を書き、それとクリーム色の印画紙を重ね、複写機にかけると写真のようなプリントができます。
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一枚一枚コピーしなくてはいけませんし、アンモニア臭がきつかったのを覚えています。これを必要数刷って検討してもらっていました。

その後「謄写ファックス」が登場し、ドラムの一端に紙原稿、他端に原紙を巻き付けて製版するようになりました。
チャッチャッという音と共にドラムが回転し製版していくものでした。
それとほぼ同時に、鉛筆で書いた原稿を原紙と重ね、強い光を当てて製版するプリントゴッコと同じ原理のものも一時期併用していました。
また子ども達の文章を印刷する場合は、ホワイトミリア原紙と言ってボールペンで書ける謄写版原紙を使いました。

私が大学生の頃、コンピュータといったら大学の情報処理センターくらいにしかありませんでした。
穴のあいた紙(カードやテープ)で入力し、記憶するにもオープンリールのテープしかない時代です。
ワープロも職員室の机くらいの大きなもので、研究室に一台しかありませんでした。

私が就職して2年目に、NECからPC8801というパソコンが発売されました。
漢字ROMボードを搭載し、黒、青、赤、マゼンタ、緑、シアン、黄色、白の8色のカラー表示ができ、テープではない5インチフロッピーディスクがついていました。
メインメモリは64KBあり、更にフロッピーディスクの容量は1.2MB……新聞紙何百枚分もの情報を記憶することができるという画期なものでした。
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ちなみに現在私の使っているノートパソコンのメインメモリは16G、内部ストレージは1Tで、2Tの外付けハードの他、Googleドライブには2Tの容量を確保してあります。(笑)

価格は25万円くらい、当時の私の給料の数ヶ月分でした。
しかし、将来必ずコンピュータによって学校の仕事や授業は変わるに違いない、と考えていましたので、インクリボンを交換して使うドットプリンターとあわせて、給料の半年分をつぎ込み買ってしまいました。

PC8801にはBASICというプログラム言語も組み込まれていたので、自分でプログラムを組んで教材を作ろうとも考えていました。

一番最初にやったことは、ワープロを使って学級通信を書くことでした。
当時『一太郎』はまだ発売されていませんでした。確か『春望』とかいう名前だったと記憶しています。

どんなことを書いたか忘れてしまいましたが、いつもの内容に「この文章はワープロで作りました。」と書き加えた記憶があります。
きっと印刷物のコピーだと思われたくなかったのでしょう。少しは自慢したい気持ちもあったのだと思います。

そして意気揚々と教頭先生に見せに行きました。
当時は直接持っていってご指導を受けるシステムでした。

教頭先生は私の学級通信を見るなり、私の目の前でビリビリと破り捨てました。
  • ワープロで作ったものなんかに心はこもっていない。子どもたちに心のこもっていないものを配って恥ずかしくないのか。」
手書きでなければ心がこもらないなら文学の本はどうなの?心はテキストの中に込められるもので手書きかどうかは関係ないだろ……と思いましたが、私は何も言い返すことができませんでした。(こわかったからです。)

今はもうこういうことをおっしゃる教頭先生はいないと思います。
しかし、みなさんが作る学年通信や学級通信に「心がこもっているか」と叱ってくれる先生も減ってしまったようです。

私のプリントを破り捨てた教頭先生を笑うことは簡単なことです。
しかし「生徒に配るプリントには心をこめる」ことを何より大切にした教頭先生の気持ちを、みなさんにお伝えしたいと思います。

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