十種神宝 学校の基礎・基本

公立の義務教育の学校に永きにわたりお勤めだった稗田先生の、若い先生方への昔語りです。学習指導要領や、それに伴って変わってきた先生たちの意識や授業のことなど、教育現場に起こってきた今や昔のことどもを書き記していきます。

 義務教育の現場に長くお勤めだった稗田先生からお聞きしたことどもを、拙いながらもまとめてみました。
 不易流行という言葉があります。この、教育の"流行"の中から、自分だけの"不易"を見つけていただければ、これに過ぎる慶びはありません。
                                   十種神宝 主人 太安万侶

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「月に思う」は、きちんと取り扱うかどうかは、学校により違いがあります。
私の場合、次の内容を約1時間でおさえます。

雪月花
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「雪月花」とは、テキストにも書かれている通り、冬の雪、秋の月、春の花のことです。
四季おりおりの自然の美しさ、風雅な眺めをいいます。
日本の自然美ですね。

この言葉は、白居易の詩に由来します。
この詩では「雪月花の時」とあり、それぞれの景物の美しいとき、すなわち四季折々を指す語でした。
そうした折々に、遠く離れた部下のことを思っている、という内容の詩です。

似たような言葉に「花鳥風月」というのがあります。
これも美しい自然の風景や、それを重んじる風流を意味します。

こちらは日本の貴族の遊びからきた言葉です。
「花鳥風月」とは元々貴族が自然の美しい景色を堪能して、それを詩歌に盛り込んでしたためるという風雅な遊びを意味していました。
2年生で習う「扇の的」では、赤色の地に金の日の丸を描いた扇が海に舞い落ちる様子を名所の紅葉に例えて美しさに感動する平家の公達の姿が描かれています。
花鳥風月を和歌に織り込むのが貴族達にブームだったのです。

これが室町時代になり、世阿弥の「風姿花伝」の中に
  • 上職の品々、花鳥風月の事態、いかにもいかにも細かに似すべし
という文があります。
花を愛でて鳥のさえずりに耳を傾けて、自然界の美しい風景に親しむ様子を「花鳥風月」と表したのです。
この「風姿花伝」から「花鳥風月」という言葉が使われ始めたとされています。

「花鳥風月」は、自然の美しいものや風景を意味し、
「雪月花」は、「雪と月と花」から、日本の四季折々により楽しめる美しいものを意味します。
どちらも自然の美しいものを表しているのですが、
「自然界のもの」であるか、「四季折々のもの」であるかという微妙な違いがあります。

ちなみに、宝塚の組は「雪月花」が由来です。(今は星と宙組が加わっています。)

旧暦の八月十五夜の月は中秋の名月

現在八月といえば夏です。私は以下のように指導しています。
  • 「新春」という言葉があるように、昔は1~3月を「春」、4~6月を「夏」、7~9月を「秋」、10~12月を「冬」と言った。
  • だから、8月は「中」の秋で中秋と言う。
  • ただし、実際の季節は今と同じではない。昔の8月は今の9月以降である。年によって違うが、一ヶ月以上ずれている。
  • これは、今の暦が太陽暦と言って太陽の動きをもとに作られたものであり、昔の暦は太陰太陽暦と言って、月の動きをもとにしていたためである。太陰暦では一年間の長さが太陽暦と比べると一年間で11日短くなってしまう。そこで太陽の動きを参考に、季節のずれを閏月というもので修正していた。
  • ちなみに八月十五夜は2019年の場合9月13日にあたる。
生徒に覚えておいて欲しいことは、
古文で春夏秋冬とあっても、今の季節とは少し違うかも知れないということです。
特に俳句の季語は古文の春夏秋冬で言い表しますから、
「こいのぼり」は夏の、「七夕」は秋の季語となります。
季節感としては、今のものと一ヶ月以上離れていると思って間違いありません。
古文を読んで今の何月何日になるかは、ネットなどで調べさせると良いと思います。

時間があれば、十二支と時刻、方位の関係も教えてしまいます。
これは2年生の「扇の的」の「ころは二月十八日の酉の刻ばかりのことなるに~」のところでも扱います。

望月

月の満ち欠けをもとにした太陰暦では、空の月が一番欠けた状態を「朔」(さく)と言い、
この「朔」から約15日たつと満月になり、これを「望」(ぼう)といいました。
朔は「ついたち」とも読みます。
ですからその月の初めが月が一番欠けた状態の日で、15日が「望月」の日となるわけです。

さやけさ
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テキストに「明るくくっきりとしているものに対するすがすがしさ」とあります。
古語辞典には「清く澄んでいること。明るくはっきりしていること。すがすがしいこと。」とあり、「~に対する」と微妙なニュアンスの違いを、筆者は主張しています。

明るくくっきりした月の光は、単なる物理的現象です。
その現象に対して「すがすがしく感ずる」のは自分であり、
それを「自分の心のありよう」と言いたいのだと思います。

自分の心のありよう

「自分の心のありよう」とは、ありのままの自分の心の状態のことです。
雲間から漏れ出た月の光を見てすがすがしい美しさを感ずる素直な気持ちを言います。

そして、例えば「義務教育の-」と言った場合、
「あるべき姿」「理想的なあり方」という意味になります。
月の光を見てすがすがしく感じるのが理想的な気持ちの持ち方である、と主張しているともとれます。

つまり、
「私たちは新たな月の美しさに触れ、それに向かい合ったときの私たち自身の心のありように気づく」
とは、月の光を見て美しいと感じている自分に気がつく、とか、
そう感じる自分は間違ってはいないんだと思っていいことがわかる、という意味になります。

これを詳しく解説しているのが、次の「この歌に歌われているような光景は~」に始まる段落です。

この歌を知らなかったら、同じような景色を見てもそれを美しいと思わないでスルーしてしまうじゃないか、この歌を知っていれば、同じような景色を見て「あ、これは美しい景色なんだ」と気がつくじゃないか、ということです。

そして、このような古典の時代から受け継がれている気持ち(美意識?)は、「私たちがまだ知らない私たち自身の心」で、古文を読んで、「新たな自分」を発見しましょう、と言っているのです。

ここらへんは、読解問題として是非テストに出題したいところですね。

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若いみなさんには、年に一回はフル指導案を書くことをお勧めしています。

なぜでしょう。
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授業はアーティストのライブステージと同じです。
ライブステージは、行き当たりばったりにやっているわけではありません。
二流以上のアーティストならば、お客の反応を細かに予想してステージが盛り上がるように台本をつくり、その台本通りに進めながら、更にお客の反応を見てアドリブで台本を変更しています。

お客はこの台本を意識することはありません。
アーティストに上手にノせられ、アーティストもお客のノリを利用して
ライブの盛り上がりを演出しているのです。

授業もまったく同じです。

そして指導案はステージの台本にあたります。
アドリブで何もない状態で、50分間授業をもたせるというのは、
プロのアーティスト(教師)ではありません。

みなさんは教育実習の時に指導案を書いたことがあると思うかも知れません。
私はかつて某国立大学教育学部の附属に勤務していました。
その時の経験から、教育実習生の指導案というもののレベルは十分に知っているつもりです。

更に指導案には、その地方、その組織独特の書き方があります。
それは、授業に対する主義・主張……いってみれば思想が異なるからです。

また各地方自治体にはそれぞれが主導して作成した形式があり、
その奥にはそれぞれの地方独特の思想があると私は考えています。

特に「生徒の意識を大切にする」という考え方は、
ライブステージでお客の気持ちの盛り上がりを大切にし、予測し、
ステージ(授業)の山場を演出していくのと同じだと思います。

そして、フル指導案というのは単元全体を見渡しての計画を記したものです。
一時間の授業は、それだけで完結するものではありません。

一時間の授業は、前の授業までの流れの上に成り立っています。
そしてその授業は次の授業からの授業に影響を与えます。
更に大きく、小学校の時に何を教わってきたはずなのか、高校に行って何をを教わるはずなのかを見通しての一時間の授業なのです。

これを縦の系統と言います。

そればかりではありません。

例えば、国語の場合、
1年生に「ダイコンは大きな根?」という単元がありますが、同じ時期に理科で学習する「葉・茎・根のつくりとはたらき」がどこまで進んでいるか、
2年生の「君は『最後の晩餐』を見たか」という単元で、遠近法や構図のとり方の指導はどこまで美術で習ったか、
3年生の「故郷」で、生徒は明治以降の歴史をどの程度知っているか、
これらを頭に入れて授業をしなくてはいけません。

これを横の系統と言います。

以上の教科指導の要素に、クラスの雰囲気等、生徒指導的な側面を加味して、
単元の計画や本時の計画をたて、それを言語化し可視的なものにしたのがフル指導案なのです。

こういうことがすべて頭の中に入っているというのは、
プロ中のプロ、大ベテランの先生でしょう。

そうでもない限り、
フル指導案が書けない、書いたことがない、というのは、
しっかり考えたことがない、というのと同義なのだと思います。

若いみなさんは、少なくとも数年以内には研究授業をやることになるのではないかと思います。
その時に「自分は教育実習でしか指導案を書いたことがない」とか「本時案の略案しか立てたことはない」と言って欲しくはありません。

完璧な指導案を創ることを考えるのではなく、
完璧な指導案を求め続ける気持ちを持っていただきたいと思います。

この気持ちが、より完成度の高い授業につながると考えるからです。

そのためには、まず指導案を書いてみることです。

そして指導案を元に、自分の授業を振り返り、
どれだけ自分が生徒の意識を見切ることができたかを確かめ、
更に教師としての技量を高めていっていただければと思います。

がんばりましょう。

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中学3年の国語に森鴎外の「高瀬舟」という作品が載っています。
images (6)© 日本文学シネマ制作委員会
  • 弟殺しで遠島の刑を受けた罪人・喜助を船で護送する役目を担った同心・羽田庄兵衛は、喜助の様子の常の罪人らしからぬ明るい様子を不思議に思いました。興味を持って話しかけた庄兵衛に喜助が物語ったその話の内容に、庄兵衛は納得すると共に感心の念さえ覚えてしまいます。さらにその犯した罪について話した喜助の身の上は、庄兵衛の心に捉えどころのない、そしてやり場のない思いと疑問を生じさせるものだった、
という話です。

喜助が犯した罪とは、病気を苦にカミソリ自殺を図った弟からカミソリを抜くことで結果的に弟を殺してしまったというものでした。

生徒は、遠島となった喜助に
  •  弟が苦しんでいるのを楽にしようとしてやったのに……
  •  弟に『殺してくれ』と言われて見るに見かねてやったのに……
と、主人公庄兵衛と同じような感想を持ちます。

現在の法律によれば喜助は、
「同意殺人罪により有罪。情状酌量により懲役2年執行猶予1年」の判決になるそうです。

同意殺人罪(刑法202条)は殺人罪の仲間ですが、殺人罪より少し罪が軽く、6ヶ月以上7年以下の懲役又は禁錮となっています。

なぜ殺人罪になるかというと、法律では
弟が死亡したという事実から遡って、その直接原因になったのは何かを考えるからです。

つまり、病気で苦しんでいる人を楽にさせようと首を締めたことにより窒息死したとすれば、
その病気が不治の病であろうと、放っておいても数時間後に死ぬことがわかっていようと、
死因が窒息死である限り、死の結果は首を締めた人がすべてを負わなくてはなりません。

ではそれをそそのかした者はどうなるのでしょう。

殺人の依頼者の場合、
「他人に犯罪を決意させて実行させる」教唆犯(刑法61条)となります。
ダウンロード (6)© さいとうプロ
例えばゴルゴ13に殺人を依頼し、ゴルゴ13が依頼を成功させれば、
依頼者は『殺人罪の教唆犯』になります。

更にヤクザの親分が部下の若い衆に殺人を命令するような場合は
「教唆犯の範囲を超えて、実行犯と同一視できる」とされ、
親分は『共謀共同正犯』(刑法60条)とすることもあります。

これは殺人者と同じ扱いです。

生徒間のいじめも同じことだとおもいます。
まず「いじめ」の事実から順番に遡って、事実を明らかにしていきましょう。

直接手を下した者は
  • 保護者を呼んで状況を説明する
  • 反省文を書かせる
  • ペナルティを科す
等、それぞれの学校の決まりに従い処分すべきです。

そして、いじめをそそのかした者、はやしたてた者も、
すべて共謀共同正犯として直接手を下した者と同様の罪に問われなければならないと思います。

「自分は手を下してはいない」「見ていただけだ」と言っても、
現在の法律では同じように裁かれる、ということを生徒に知らしめなくてはいけません。

そしてこれは、スクールカーストの上位者を裁く手段となります。

未成年の犯罪の場合、
10歳以下では責任能力がないと判断されますが、14歳以上ではあるとされるのが一般的です。
判例では、小学校卒業前後の12歳に境界線がひかれているようです。
中学生ですから、
  • 世の中は君たちに責任能力があると判断している
ことを知らせる必要があるでしょう。

そして未成年者ですから、第一義的には親に監督義務があります。
ですから
  • 学校としては、親に子のしたことを報告しなくてはならない
このことも生徒にしっかり理解させておくと良いと思います。

「いじめ」の事案が起こったら、しっかり状況をつかみ、
法の名の下に正義を示しましょう。

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祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。

ここで言う「祇園精舎の鐘の声」とは、
祇園精舎の西北の角にあったという無常院の鐘のことを指します。
お釈迦様が、病者に安らかな臨終を迎えさせるための施設です。
ここに居る人が亡くなるとき、自動的に鐘が鳴ったといいます。

この「諸行無常」の考え方は無常観と言います。

平安時代の花鳥風月に代表される自然の美を追究する時代は終わり、
血で血を洗う戦乱の世になりました。

道ばたに死骸がごろごろ転がっていて、
西行法師が小野小町のドクロに会った頃の話です。

そういう時代の中で、人々は死後の世界に救いを求める末法思想が流行りました。
宇治平等院が有名ですね。
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そういう時代の中で育ってきたのが無常観です。

「諸行無常、盛者必衰」という仏教的無常観は
『平家物語』を端緒として、西行の歌や吉田兼好の『徒然草』、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」で始まる鴨長明の『方丈記』など、
その後の日本の中世文学に大きな影響を与えました。

一年生で学習した「いろは歌」もこの流れの中にあります。

「永遠なるもの」を追求し、そこに美を求めたヨーロッパ人とはまったく異なる美意識ですね。

無常観を少しこじらせると世捨て人となり「隠者文学」となります。

更にこれを「幽玄」の世界として表現しようとしたのが「能」でしょう。
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これが禅の教えと融合し千利休の「茶道」に結実します。
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茶の湯の道で求めた「侘び」「寂び」は、連歌の宗祇を経て松尾芭蕉につながります。
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これらの人々は三年生の「おくのほそ道」冒頭に出てきます。
「おくのほそ道」冒頭では、文学史のおさらいをするわけですね。

平家物語冒頭「祇園精舎の鐘の声~」は、おそらく一時間かけて行うのが常だと思います。
一時間ずっと音読・暗誦練習というのも何であうので、この知識を与えるというのもアリだと思います。

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「扇の的」の成功確率

那須与一は、高さ30㎝以上幅50㎝以上の扇の的に、70~80mくらいの距離で命中させていますが、どのくらいの成功確率だったのでしょう。
全日本遠的競技会優勝経験者数名で実験したところ、五分の一の確率で成功したそうです。
また、テレビ番組でも実験したところ、成功しています。
(テレビですから編集したでしょうけどね。)
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気象条件や弓矢の性能等を考えると、与一は名人には違いありません。
しかしMissyon Impossibleなものではないようです。5回に1回は成功が期待できるのですから。

戦に明け暮れた当時の武士たちの中では、
「弓の名人ならば、運が良ければ命中させることができるかもしれない」
くらいの意識だったのではないでしょうか。

なぜ平家は「扇の的」を挑んだか

『源平盛衰記』によると、

この赤字に金の日の丸の扇は、安徳天皇の父親である高倉院が厳島神社に奉納したものです。
平家が都を追われたとき、厳島神社に立ち寄り、神主から
  • この扇には高倉院の気持ちがこもっていて、これを持っていれば敵が矢を射かけてもUターンして射た人にあたる
と言って渡されました。
そこで、この扇を的にして、平家が勝つか源氏が勝つかの占いをしよう、ということになったのです。
平家は「高倉院のご加護があるので、源氏の矢はあたらない。占いは平家の勝ちとでる」と思ったのでしょう。

そしてもう一つ、この扇は射ることがはばかられる要素がありました。

それは、真ん中に描かれている金の丸です。
これは日輪を表します。
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『源平盛衰記』でも、与一は「日輪が描いてあるので、射るのは畏れおおい」と、日の丸を狙わずに扇の要を狙います。

中国の故事に太陽を射る話がありますが、これは一度に10個も太陽が出たため人々が干ばつに苦しんでのことです。
太陽に対して、単純に「射ることは畏れおおい」と考えただけでしょうか。

赤地に金の日の丸というのは、赤は朝廷の色、金は太陽の象徴とされています。そして太陽神アマテラスの直径の子孫である天皇も、太陽の象徴と考えることができます。
そのため、赤地に金の日の丸のデザインは、後に「錦の御旗」と呼ばれる天皇旗となります。
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この時、平家は安徳天皇を奉じていました。
一方、後白河法皇は安徳天皇の弟、後鳥羽天皇を立てましたが、彼は天皇の継承に必要な三種の神器は持っていませんでした。

平家には三種の神器を持つ安徳天皇こそが正統な天皇であるという思いが強かったのではないでしょうか。

そして、天皇の象徴とも見える赤字に金の日の丸の扇を出し、
「三種の神器を所持する正当な正統な天皇に『弓を引く(反逆する)』つもりか」
と、源氏を挑発しようとしたのかもしれません。

これを察した弓の名人の上級武士達は「扇を射よ」という義経の命令を断り、
一番下っ端の那須与一にお鉢がまわってきたのかもしれません。

ちなみに、歴史上最初に「錦の御旗」を使ったのは、くだんの後鳥羽上皇です。
時の執権北条氏に反旗を翻した承久の乱で用いました。

何か因縁めいていますね。

平家は何に感動したのか

 『源平盛衰記』では、与一が扇を射た後、扇をセットした女房、玉虫の前が次の歌を詠んでいます。

  • 時ならぬ花や紅葉をみつるかな芳野初瀬の麓ならねど(その季節でもないのに、桜の花や紅葉の舞い落ちる様子をみたことだ。ここは桜や紅葉の名所の芳野や初瀬の山の麓でもないのに。)

  与一は、扇の要の少し上を射切りました。童謡『紅葉』ではありませんが、
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  •  溪(たに)の流に散り浮くもみじ/波にゆられて はなれて寄って/赤や黄色の色さまざまに/水の上にも織る錦(にしき)

 と、錦地に金の扇が要の部分を射切られて海に舞い落ちる姿を紅葉に見立てたのでしょう。


見立て遊びは、平安貴族の基礎的素養です。どっぷりと貴族化してしまった平家の特徴がよくあらわれています。

なぜ平家の男は射殺されたのか


 『源平盛衰記』には、次のように書かれています。

  • 平家の男が舞を舞ったとき、源氏の中で「射殺すべし」と「射てはならない」という二つの意見がありました。「あんなに感動している者を射るのはいかがか。だいたい与一は的にあてるほどの技量であるので、殺してしまうことになる。」というのが「射てはならない」という理由です。一方「与一は扇に当てはしたが敵を倒したわけではない。まぐれ当たりと言われても面白くない。」というのが「射殺すべし」の理由です。そしてすったもんだの末、「情けは一時の感情だ。今は一人でも敵を倒すことが大切だ。」ということに決まり、射ることになりました。

そういうことで、やりきった感満載のドヤ顔をして帰ってきた与一は、また海の中へ行かされることになったのです。

ですから最後の部分の「あ射たり」も「情けなし」も、『源平盛衰記』では源氏の言葉として書かれています。


「敵を一人でも多く殺すことが戦である」
と考えた源氏は、貴族化した平家と違い、徹底したリアリストですね。

まあ、だいたい那須与一自身、実在したかどうか疑わしい文学的文章ですから、本当はどうだったかは、それこそいろいろな解釈ができると思います。
迂闊に定期テストに出題しないことをおすすめします。

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