十種神宝 中学国語の基礎・基本

稗田先生は、永く公立小中学校にお勤めでした。 その先生からお聞きした、 主に中学校の国語の教材のことなどを 書き留めました。

稗田先生からお聞きした、中学校の国語の授業メモです。
HP「十種神宝 中学国語 学習の手引き」の下書きになっています。興味のある方はこちらもご覧下さい。https://y-oono.jimdofree.com/
中学生のみなさんにもわかるようにまとめました。

このブログで紹介した教材の学習プリントをおわけします。興味のある方はこちらをご覧下さい。https://kandakara.booth.pm/

 

takeshitadoriIMGL3946_TP_V
 「なんで題名が『挨拶』なの?」

 夏休み明けすぐに取り扱う「挨拶」の授業で、必ず生徒から出てくる質問です。

 作者の石垣りん(1920年(大正9年)-2004年(平成16年))は、東京都生まれの詩人。
 小学校を卒業した14歳の時に日本興業銀行に事務員として就職。以来定年まで勤務し、戦前、戦中、戦後と家族の生活を支えました。
 そのかたわら詩を次々と発表。職場の機関誌にも作品を発表したため、銀行員詩人と呼ばれました。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 『ユーモアの鎖国』(石垣りん 1973)で、作者は次のようにこの詩について説明しています。

 第二次世界大戦後、・・・。食糧も娯楽も乏しかった時期、文芸といった情緒面でも、菜園で芋やかぼちゃをつくるのと同じように自給自足が行われ、仲間うちに配る新聞の紙面を埋める詩は、自分たちで書かなければならなかった。実際、私も勤め先の職員組合書記局に呼ばれ、明日は原爆投下された8月6日である。朝、皆が出勤してきて一列に並んだ出勤簿に銘々判を捺す、その台の真上にはる壁新聞に原爆投下の写真を出すから、写真に添える詩を今すぐここで書いてもらいたい。と言われ、営業時間中、一時間位で書かされたことがありました。

  挨拶 原爆の写真によせて

あ、
この焼けただれた顔は
一九四五年八月六日
その時広島にいた人
二五万の焼けただれのひとつ

すでに此の世にないもの

とはいえ
友よ

向き合った互いの顔を
も一度見直そう
戦火の後もとどめぬ
すこやかな今日の顔
すがすがしい朝の顔を

その顔の中に明日の表情をさがすとき
私はりつぜんとするのだ

地球が原爆を数百個所持して
生と死のきわどい淵を歩くとき
なぜそんなにも安らかに
あなたは美しいのか

しずかに耳を澄ませ
何かが近づいてきはしないか
見きわめなければならないものは目の前に
えり分けなければならないものは
手の中にある
午前八時一五分は
毎朝やってくる

一九四五年八月六日の朝
一瞬にして死んだ二五万人の人すべて
いま在る
あなたの如く、私の如く
やすらかに 美しく 油断していた。

 題名は、友だちに「オハヨウ」と呼びかけるかわりの詩、という意味で「挨拶」としました。
 あれはアメリカ側から、原爆被災者の写真を発表してもよろしい、と言われた年のことだったと思います。はじめて目にする写真を手に、すぐに詩を書けという執行部の人も、頼まれた者も、非常な衝撃を受けていて、叩かれてネをあげるような思いで、私は求めに応えた。どういう方法でつくったという手順は何もなく、言えるとすれば、そうした音をあげるものを、ひとつの機会がたたいた、木琴だかドラムだか、とにかく両方がぶつかりあって発生した言葉、であった。それがその時の空気にどのように調和し得たか。
 翌朝、縦の幅一米以上、横は壁面いっぱいの白紙に筆で大きく書いてはり出されました。皆と一緒に勤め先の入口をはいった私は、高い所から自作の詩がアイサツしているのにたまげてしまいました。何よりも、詩がこういう発表形式で隣人に読まれる、という驚きでした。

 今で言えば、職員が出勤した時にひっくり返す札の上に、
 初めて原爆被害者の写真がデカデカと張り出され、その隣にこの詩が書かれていたのですね。
kjhou_shifuku
 「友」というのは、同じ職場に出勤してきた人たちのことを指します。
 しかし、こんなことを説明する必要なないと思います。作者が生徒に「友」と呼びかけているという認識で十分でしょう。
 朝、学校へ出てきて「オハヨウ」と言葉をかけあう「向き合った互いの顔」と、
 目の前に張り出された初めて見る原爆被害者の顔……
 この対比は、この作品を解釈する鍵となります。

 ですから、この詩が書かれた状況は、いつもきちんと説明しています。

 ただし、それを学習の前にするか、後にするかは、そのクラスに実態によります。
 その時、原爆被害者の方の写真を生徒に見せるかどうかは、それこそ、そのクラスの実態によります。
 見せた授業の方が、見せない授業より数は少ないのですが、より深い読解ができたような気がします。どうするかは今でも微妙です。

 この詩の指導事項は、以下の通りです。
  • ア 文脈の中における語句の効果的な使い方など、表現上の工夫に注意して読むこと。
  • ウ 文章を読み比べるなどして、構成や展開、表現の仕方について評価すること。
  • エ 文章を読んで人間、社会、自然などについて考え、自分の意見をもつこと。
 主題の
  • 原爆の危険は、常にある。油断してはいけない。
は、「顔」の分析ができると、生徒は容易に把握し文章化し、自分の意見をもつこともできます。

 詩は文学の一種ですから、私は「いつ」「どこ」「だれ」をまず押さえさせます。
 すると生徒は、この詩には「現在」と「過去」の二つの「いつ」が流れていることに気づきます。

 これをきっかけにして「顔」の分析に入ります。

 指導事項から、この詩における表現技法とその効果をきちんと押さえることは当然のことですが、
 「りつぜん」という単語の意味がわからない子がいます。
 きちんと理解させなくてはいけません。

 詩の成立背景を学習し、詩の分析を行い、主題をまとめていくので2時間で十分です。

 ただし生徒が休みぼけをしていた場合は3時間かかります。
 高校入試に向けてその状態ではいけませんから、気合いをいれてあげます。

 この項目については、生徒用に解説したものがあります。
 興味のある方は、こちらへどうぞ。



国語科教育ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加

img04
 「キャリア教育」の一環として職場体験学習が各校で計画されています。

 1960年代、池田勇人内閣は「働くということは、はたを楽にするということでございます」のキャッチフレーズで「所得倍増計画」を掲げ、高度経済成長をもたらしました。
 この当時は、キャリア教育は「進路指導」と言われていました。

 しかし高度経済成長下の金の卵が絶滅危惧種になって以来、中学校で進路指導と言えば進学指導のことを指すようになりました。今でも進路指導の係の先生の仕事は主に進学指導のことを指す場合が多いようですね。

 それから40年が経ち、偏差値の高い高校・大学へ行けば一生安心……そんな右肩上がりの幸せな時代は終わりました。バブルが崩壊した2000年頃には、ニートとかフリーターが増え始め、社会問題になりました。
 就職氷河期と言われ、苦労して就職したにもかかわらず若者たちが「就職後3年でやめていく」と言われたのもこの頃です。

 これに対し時の政府は「将来を担う若者たちに勤労観、職業観を育み、自立できる能力をつけること」を目的に「キャリア教育」を推進しました。「生きる力」という言葉が使われ始めたのもこの頃です。

 バブルが崩壊した当時の文科省は、20年、30年後を見越して子どもたちに「生きる力」をつけようと考えました。
 この流れの中で、特別活動や総合学習の枠の中で「生徒が事業所などの職場で働くことを通じて、職業や仕事の実際について体験したり、働く人々と接したりする学習活動」(文部科学省)として職場体験学習が始まったのです。
 ちょうど総合的学習の時間がスタートした頃です。

 そして失われた20年が経ち、バブル崩壊の頃に心配されていた「未来」がいよいよ到来しました。

 現在文科省はキャリア教育の必要性を次のように述べています。

  • 少子高齢社会の到来、産業・経済の構造的変化や雇用の多様化・流動化
  • 就職・就業をめぐる環境の変化
  • 若者の勤労観、職業観や社会人・職業人としての基礎的・基本的な資質をめぐる課題
  • 精神的・社会的自立が遅れ、人間関係をうまく築くことができない、自分で意思決定ができない、自己肯定感を持てない、将来に希望を持つことができない、進路を選ぼうとしないなど、子どもたちの生活・意識の変容
  • 高学歴社会におけるモラトリアム傾向が強くなり、進学も就職もしなかったり、進路意識や目的意識が希薄なまま「とりあえず」進学したりする若者の増加
 終身雇用制度は崩壊し、AIや外国人労働者、非正規採用者の職場に占める割合が増加する中、生徒たちにリアルに「生きる力」をつけてあげなくては、文字通り「生きる」ことのできない時代になったのです。
 自分のことなのに、ぬるくなり始めたお風呂から出られなくなったような(風呂から出れば寒い。しかし、このまま風呂につかっていてもお湯は冷めていくだけの)現状に対し何もしようとしない(「できない」ではありません。)若者たち……。年金制度も行き詰まる中、どうやって生きのびることができるのでしょうか。

 現在のキャリア教育は、これをなんとかしようとする試みなのだと思います。

 ですからキャリア教育……「職業観・勤労観を育む学習」では「人間関係形成能力」「情報活用能力」「将来設計能力」「意思決定能力」を培うこと(文部科学省)が求められているのです。

 職場体験学習は、それを行うこと自体が目的なのではありません。
 ましてやお世話になる事業所は「教える」ことのプロではありません。

 現在、職場体験学習の日そのものは「学校行事」か「総合的な学習の時間」としてカウントされていると思いますが、この学習を通して、何を学ばせ、どんな力をつけるのかを明確にし、それを生徒におろしていくのは、事前・事後の「総合的学習」あるいは「特別活動」に委ねられています。
 (だいたい、希望した職場に就職できる人間なんて、今時ほとんどいません。それが現実であることをふまえ、どう指導し、どう「学習のねらい」を達成させるかが、私たちの仕事ですよ。また、学習の成果が「キャリア教育」のねらいと合致しているといいですね。)


教師教育ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加

 中学3年生の国語の教科書(光村図書)に井上ひさしの「握手」という作品が載っています。

 死期を悟ったルロイ修道士は、主人公の「私」に、
ダウンロード
 「仕事がうまくいかないときは、この言葉を思い出してください。
 『困難は分割せよ。』
 あせってはなりません。問題を細かく割って、一つ一つ地道に片づけていくのです。
 ルロイのこの言葉を忘れないでください。」

と伝えます。

 この「困難は分割せよ」というのは、デカルトの言葉とされています。
 原文は「検討する難問の1つ1つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。」(デカルト『方法序説』谷川多佳子訳 岩波文庫)です。
 ビル・ゲイツも似たようなことを言っていますね。

 どういう意味でしょう。

 バケツよりも大きな石だからバケツには入らないと思っていても、大きな石は分割すればバケツに入れることができます。
 これがルロイ修道士の言う「困難は分割せよ」ということだと思います。

 更に、スティーブン・R・コヴィー博士は、スケジューリングについて、この石の例を使って次のように説明しています。

 1週間という期間の中でやらなければならないことはたくさんあります。
 バケツの中に細かな予定、つまり小さな石や砂を先に入れてしまうと、すぐに半分ぐらい埋まってしまいます。
 そうすると重要で大切なこと、つまり大きな石が入るスペースがなくなってしまいます。
 これでは重要なことが、また先送りされてしまいます。

 ではどのようにしたら、たくさんの大きな石をバケツに入れることが出来るでしょうか。
2018y03m12d_080041365
 大きな石を先に入れ、小さな石や砂を後から入れればいいのです。
 時間管理も同じことが言えます。

 たいして重要でない用事(=砂)を先にやろうとするため、肝心の重要な予定(=大きな石)に時間を割くことができないのです。
 重要なことを実行しようと思うならば、まず大きな石をスケジュールに先に入れることです。

 仕事の期限は決まっています。そして1日は24時間……これを変えることはできません。

 バケツに入らない大きな仕事は、それを小部分に分割することと、全体として重要な部分・緊急な部分、そうではない部分の優先順位と組合わせが大切なのです。

 目の前の仕事、すぐに結果の出る仕事をやみくもに行うのではなく、始める前に段取りを組んでから行いましょう。
 1日ではなく、1週間、1ヶ月、1学期、1年という単位でバランスよく段取りを組んで、取組んでいくことも重要です。

 そのために、毎週決まった時間に15分~30分くらいの時間をとって、「来週、本当にやらなくてはならないことは何なのか」を自分に問いかけ、実際のスケジュールに、それを優先的に入れましょう。
 そして、空いた隙間に小さな石や砂を入れるようにしましょう。そうすれば、あなたの1週間を効果的に過ごすことができます。そのための週暦や月暦です。
 また、その朝に日報を見たら、2~3分程度でいいので、その日の予定を組み立てましょう。

 当然、イレギュラーなことが発生し、予定が狂うこともあります。
 「イレギュラーなことがあって当たり前」なのが私たちの仕事です。
 しかし、時間(期限)を守ることができないと、他人に迷惑がかかります。これでは社会人として失格です。
 他人に迷惑をかけないためには、予定が狂うことを織り込んで予定を立てておくことも大切ですね。


教師教育ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加

 本年度に入ってからも、教員の不祥事が相次ぎます。公金の横領をはじめとする会計事務に関わるもの、わいせつ行為に関わるもの、部活動における体罰・暴言に関するもの、飲酒運転に関わるもの、速度違反等道路交通法違反に関わるもの等あります。
d224aefc8906fa7f080630ca886b138b_t
 例えば、交通事故を起こしてしまった場合について考えてみましょう。

 当然警察のお世話になるわけですので、刑事事件として取り扱われ、禁固や罰金等の刑事罰が下されます。

 この罰金は被害者に支払われるわけではありませんから、当然被害者は損害賠償や慰謝料の支払いを求めます。これを民事事件と言います。

 そして、本人に悪気がなかったにせよ、やってしまったことに対し教育委員会は私たちにペナルティを科します。これが「処分」です。

 懲戒処分には「免職」「停職」「減給」「戒告」の四つの種類があります。

  • 免職はクビということです。当然退職金など支払われません。
  • 停職はその期間職務に就かせない処分で、その期間分の給与は支払われません。
  • 減給は俸給の支給額を減らす処分です。
  • 戒告は本人の将来を戒める旨の申し渡しをする処分です。これは経歴にキズがつきます。
 停職減給の怖いところは、退職金と連動していることです。退職金は退職時の給与で計算されます。処分されると昇給が人より確実に遅れますから、退職時には積もり積もってハンパない金額になります。

 また、懲戒処分以外に指導上の措置として長野県では「訓告」「厳重注意」「口頭注意」があります。
 懲戒処分の「戒告」と措置の「訓告」「厳重注意」は義務違反のレベルが違うだけで、経歴にキズがつくことに変わりありません。

 これらの処分は、
  1.  業務処理不適正や勤務態度不良などの一般服務関係
  2.  横領、紛失等の公金公物取扱い関係
  3.  児童生徒に対するわいせつな行為等
  4.  住居不法侵入や傷害、器物損壊等の公務外非行関係
  5.  指導監督不適正や非行の隠蔽・黙認等の監督責任関係、
等に対して行われます。

 ルパン三世ではありませんから「悪いことなんかするつもりない」のは当たり前です。
 「するつもり」がなくても「悪い」ことに巻き込まれて処分を喰らうことだってあります。

 特に学期末に多いのが、1.の「業務処理不適正や勤務態度不良などの一般服務関係」です。ここには「個人情報の盗難、紛失又は流失」の項目があり、「過失により個人情報を盗難され、紛失し、又は流失した職員」は「減給又は戒告」とあります。
 学期末にかけて多くなるのが、テスト成績等をUSBメモリに入れて持ち出し、それをなくしてしまうケースです。最近はニュースになることは少なくなりましたが、実はたくさんの先生方が「処分」を受けていると聞いています。

 それ以上に問題となっているのはスマホの取り扱いです。
images
  • ついスマホで生徒の写真を撮ることはありませんか。
  • 生徒の連絡先が入ったままにしてありませんか。もしスマホがどこかへ言ってしまったら「減給又は戒告」が待っていますよ……ガクガク((;OдO))ブルブル)
  • 授業中スマホをプロジェクタに接続して画像などを生徒に見せることはありませんか。(間違ってヤバい画像を見せたら、権威失墜行為で一発アウトです。)
 そんな時、あなたを守ってくれるのは、年度当初に配られる「服務規程」や「秘密情報の取り扱いマニュアル」(学校によって呼び方が違います。)などです。
 それを守ってさえいれば、万が一という場合にも「規則を守っていたのだから」一応服務規程違反に問われることはありません。

 勤務時間内にすべての仕事を終えることはとても難しいことです。(はっきり言って不可能です。)
 そして仕事を持ち帰る手続きは面倒くさいものです。

 しかしこの面倒くささがあなたを守ってくれるものなのです。
 自分の退職金と天秤にかけ、自分を守るために保険をかけておくことも大切だと思います。

 特に学年末、学期末は、テストの処理や成績処理、通知票の処理など、危険がいっぱいです。いざという時に備え、決められた規則はきちんと守りましょう。


その他ランキング
このエントリーをはてなブックマークに追加

 「間抜け」とは、辞書的に言うと、おろかで要領が悪いこと、また、そういう人をいいます。「間」とは、物と物や音と音に挟まれた「抜けている」部分です。

 「抜けているところ(間)」が「抜けて」いるとはどういうことでしょう。
 「抜くべきところ(間)」の抜き方が悪くて、物と物や音と音の間隔がアンバランスになっていることですね。

 名人といわれる落語家の語り口は間のうまさが絶妙だし、剣道では間のとり方が勝敗を決します。
 ぼんやりして「が抜ける」と、約束に「に合わず」、「の悪い」思いをする、といったように、間という考え方は、私たちの日常の意識には、取りとか隙(すきま)といった「空間意識の間」と、太鼓の間とか、間を外すといった「時間意識の間」とがあります。(日本人の特徴かな?)

 毎日の授業を振り返ってみましょう。

 教室に入って、「起立、気をつけ。○月○日、欠席者~、現在~名、○○の授業を始めます。お願いします。着席。」の動作……間抜けになっていませんか。
o0400056912875994369『お前はまだグンマを知らない』©井田ヒロト
  • チャイムが鳴って、先生が入ってきても号令がかからない。(これは、間の開きすぎです。)
  • 「起立」と言っても、すぐに起立しない。(最後まで起立しない生徒は生徒指導上問題があります。)
  • 「気をつけ」と言っても、動作を止めない。体がふらふらしている。(体がふらふらしているのは「気をつけ」の姿勢ではありません。動作を止めることも「間」です。)
  • 「お願いします」の時の「礼」の動作がない。(「礼」では、頭を下げ、一瞬止まるのが間です。)
  • この間ずっと先生の方を見ない生徒はいませんか? いるとしたら、何人いて、それは誰ですか?
  • それよりもっと気になるのは、先生が生徒の方をほとんど見ずに、教科書など机の上を眺めながら挨拶を受けている人……いませんよね。
 先ほども言いましたが「」とは時間的・空間的なスキマです。
 「親しみを込めようとして(自分と対等であることをあなたや周囲に認識させようとして)」無理やり空間的な間合いをつめてくる生徒だっているかもしれません。しかし、教師と生徒とは、仲間や友達にはなれません。なぜなら、仲間や友達は「業」を「授ける」ことはしないからです。

 授業は真剣勝負です。真剣勝負とは、本物の剣を使って勝負を決めることです。そして一時間の授業で「ねらいを達成する」ことが、わたしたちの勝利条件となります。勝利するためには、空間と時間を制することで、闘う時、自分を「有利な位置」に立つようにしなくてはいけません。

 例えば先の例で、チャイムが鳴ってもすぐ号令がかからないなら、2分前に入室し、黒板を背にして生徒を見渡していましょう。
 「起立」の号令がかかっても立たない、「気をつけ」と言っても動作が止まらないならば、全員が揃うまで待ちましょう。(係が次の号令をかけようとしたら止めましょう。動作を止めない本人に注意する必要はありません。)
 「お願いします」の挨拶を、生徒全員が揃ってやるのを確認してから先生が大きな声で「お願いします」と答えましょう。

 これが「」です。各学校でも、若干の違いはありますが、こうするように年度当初申し合わせてあると思います。再確認してください。

 ダラダラと始まった授業を引き締めるためには、膨大な労力を要します。時間的な「間」をコントロールすることによって、より効果的・効率的な授業を目指しましょう。
このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ