十種神宝 学校の基礎・基本

公立の義務教育の学校に永きにわたりお勤めだった稗田先生の、若い先生方への昔語りです。学習指導要領や、それに伴って変わってきた先生たちの意識や授業のことなど、教育現場に起こってきた今や昔のことどもを書き記していきます。

 義務教育の現場に長くお勤めだった稗田先生からお聞きしたことどもを、拙いながらもまとめてみました。
 不易流行という言葉があります。この、教育の"流行"の中から、自分だけの"不易"を見つけていただければ、これに過ぎる慶びはありません。
                                   十種神宝 主人 太安万侶

 このブログで紹介した教材の学習プリントを作成しています。興味のある方はご覧下さい。https://kandakara.booth.pm/

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  • 蓬(よもぎ)、麻中に生ずれば、扶(たす)けずして直し
これは「荀子」の言葉です。
「そのままではふにゃふにゃしてしまう蓬でも、ピンと立つ麻畑の中に生えれば、おのずとまっすぐに伸びる」という意味です。

ある先生の体験談から…

  • 中学2年生の担任をしていた頃、ある学級を受け持ちました。その中学校は2つの小学校の児童が入学してくるところです。小学校ではゴタゴタがあったのでしょうか。一年間、生徒の「仲間関係」を修復するために、私自身も生徒もとても苦しい思いをしました。学級の中にまとまりが出てきて明るい学校生活が送れるようになったのは3年生の後半になってからでした。卒業時にはみんな晴れ晴れとして自分の進路に旅立つことができましたが、担任としては密かに悩んでいたことがありました。それは勉強のことです。私が受け持ったその学級は,1年生から卒業するまでの間、いつのテストでも学年の中で常に最下位の平均点でした。
仲間関係がうまくいかなかった学級の成績が上がりにくいかったのはなぜでしょう。
(学級の平均点が低いクラスは仲間関係がうまくいっていない、ということではありません。念のため…)
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  • 勉強は『自ら学ぼうとする意欲』、言い換えると『やる気』によってその結果が左右されることがあります。この『やる気』は周囲の人(親,友人など)から【受容】されているという気持ち(私は受け入れられているんだという気持ち)によって形成されます。この【受容感】は,出生児の親に受容されていると言うことに始まり、幼児期・小学校・中学校での仲間関係の善し悪しで、高くもなり低くもなると思います。つまり、勉強の『やる気』は、自分の周囲の仲間関係で大きな影響を受けることが考えられます。(筑波大学 教育心理学博士 桜井茂男)
成績は、その子の仲間関係だけで決まるものではありませんが、無視できない要素なのです。
生徒同士が互いにすばらしい発想や意見を認め合う場面を毎日の授業でいかに仕組んでいくか、が
私たちに課せられた課題です。

「あの子はどうだ」とかいう偏見を打ち破り、
互いに認め合い高め合う授業を創造することは、
いじめのない教室を作ることにもつながると思います。

学級という“麻畑”を耕し育てるのは、
生徒が学校にいる時間のほとんどである授業です。

教科の授業を通じて、いじめのない学級を創ることは、
私たち教師の一人ひとりの使命だと思います。
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私たちが日々の暮らしの中で出合う、さまざまな疑問や困りごと、
「おかしいな」「納得できない」「なぜだろう」と思うできごと。
記者に伝えることで、ヒントや答えが得られるかもしれません。
あなたが寄せてくれた情報を出発点に記者が取材し、記事にします。
一人一人の声と記者がつながることで、地域や社会を変える力が生まれます。

「筆算の線、手書きなぜダメ? 小5が160問「書き直し」命じられる 指導の背景は」(西日本新聞)をはじめ、
「重過ぎる通学かばん12キロ 中学生『つらい』ロッカー狭く置き勉困難」(河北新報)
「『ブラック校則』私もNO 果敢に見直し挑んだ女子高校生」(神戸新聞)等々、

ここのところ、市民のみなさんの声が新聞に取り上げられる世の中でござんす。
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  • 古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます。どこに新しいものがございましょう。生れた土地は荒れ放題、今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか。(「傷だらけの人生」藤田まさと作詞・吉田正作曲)
昔は担任の先生に何か言いたいことがあるときは、直接言いに来たもんでござんす。
言いにこれねぇときゃぁ、連絡帳で「お恐れながら…」と。

しかし今じゃ、校長先生を飛び越して直接教育委員会へ……。
いえ、直接世間様へ訴えるほうが手っ取り早いってぇ時代なんでしょうかねぇ。

そういやぁ流行語大賞になった「保育所落ちた日本死ね」もツイッターがもとでござんしたね。

LINE、専用フォーム、Fax、郵便と、
いろんな方法で市民のみなさんの声を集めて面白おかしく記事にするのが新聞社さんの渡世でござんす。
新聞社さんが市民のみなさんの声を集めるってぇのをどうこうしようってぇんじゃぁありません。

しかしケータイやネットを使ってってぇ方法はどうなんでございましょうねぇ。

昔は筆をなめなめ、考え考え巻紙に文章を書いたもんでござんした。
そういっちゃぁ失礼ですが、
メールなんかは思いついたことをそのまんま垂れ流しちまうこともあるんじゃぁねぇんでしょうか。

私たち教職員も「バッシング」を受ける身。
世間様からお叱りを受けることは覚悟でござんす。
「学校に言ってもラチがあかねぇ」ってぇ対応をしてるってぇところもあるかも知れません。

ツイッターなんかにゃぁ、もっとひでぇことが書いてあります。
一端火が付きゃぁ、どうなるか……。

そんな世の中、手前(てめぇ)で手前を守るなんてこたぁできません。

くだんの筆算だって、どうやらせるのか、どう評価するのか、教科で相談して勝手なマネをしねぇ。
何かあったらホウレンソウ。
組織としてのスジを通しておきゃぁ、責任を負うのは組織です。

みんなで対応してくれるじゃぁねぇんでしょうか。

情報の持ち出しだって、非違行為だって、自分を守る代償と思やぁ、簡単なことでさぁ。
ハードルが高けぇからこそ、しっかり守っていりゃぁ
「お前ぇ一人に罪は負わせねぇ」って、みんなから守ってもらえるんじゃねぇんでしょうかねぇ。
 
  • なんだかんだとお説教じみたことを申して参りましたが、そういう私も日陰育ちのひねくれ者、お天道様に背中を向けて歩く、馬鹿な人間でございます。(『傷だらけの人生』既出)
鶴田さんみたいに強くは生きられません。皆で肩寄せ合って生きていきましょうゃ。
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7e6d568f良寛
「いろは歌」は「音読に親しもう」とある通り、

○ア 伝統的な言語文化に関する事項
  • 文語のきまりや訓読の仕方を知り、古文や漢文を音読して、古典特有のリズムを味わいながら、古典の世界に触れること。(ア)
をねらいとする教材です。

ポイントは「文語のきまり」「音読」「リズムを味わい」です。
だからと言って、一時間「いろはにほへと」と音読をさせていたのでは、江戸時代の寺子屋以下の指導です。

この教材は、
これから三年間学習する古文のスタートとしての意味を持っています。

三年間の古文学習のゴールに待っているのは高校入試でしょう。
高校入試では、以下の問題が出題されます。
  • 現代仮名遣いに直す
  • 古語の意味を答える
  • 主語を補う
  • 助詞等を補う
  • 会話文を問う
  • 主題や大意を問う
  • 説明的文章との関連問題
この高校入試につながる古文のスタートして
「いろは歌」で特におさえたい内容は
音読することを通して、
  1. 古文は歴史的仮名遣いで書かれているが、読むときは現代仮名遣いに直して読まなくてはいけないこと……この力をみるために「現代仮名遣いに直し、すべてひらがなで書け」という問題があります。
  2. 古語は、現代語にはもうなくなってしまった語や、現代語で使っていても意味が違う語があること
を強く意識させることだと思います。

導入 「いろは歌」言えるかな

まず、いろはかるたについて生徒の注意を向けます。
「犬も歩けば……?」「論より……?」と問いかけ、
「これ、何かるた?」と問いかけます。

「いろはかるた」は江戸、大坂、京都と微妙に異なりますから、その地方のものになるように注意すると良いですね。(このことは過去の全国学調でも出題されました。)

「この『いろは』って、全部言えるかな?」と問い、
生徒の答えに従って全文を板書します。

いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこへて
あさきゆめみし ゑひもせす

展開1 現代仮名遣いで「いろは歌」を読もう

「いろは歌」を古文として、内容が理解できるようにアクセントやイントネーションをはっきりさせて範読します。

いろ にオエド、ちりぬるを。
よ たれ、つねなら
の おくやま、キョウ
あさき ゆめみエイもせ

ここで意味を問うても生徒は答えられませんから
「なんとなくわかるような気がしますね」程度に抑え、
「どこが違った?」と問います。
  • 「は」はワと読む……これは現代語と同じです。(古語の名残り)
  • 違う読み方をするものがある。
  • 「ゐ」「ゑ」はイ、エと読む。(ワ行音のイ音とエ音です 戦前まで使われていました)
  • 「けふ」は「今日(キョウ)」と読む。
答えられなければ、黒板を示しながらもう一度範読します。
すると、読み方が違うことに気づきます。

そして古文の「歴史的仮名遣い」と「現代仮名遣い」について説明します。
そして
  • すらすら読めるかどうかを見るために、テストでは「きちんと読めるかどうか見るために、ひらがなで現代仮名遣いを書かせる」から、何回も音読して体で覚えよう
と言い、教科書を開かせて現代仮名遣いに直す箇所をチェックさせます。

展開2 「いろは歌」の意味を知ろう

更に「教科書の下にあるように、漢字仮名交じり文で書くと、更になんとなくわかりますね。」と言って範読します。

しかし教科書の現代語訳だけでは、生徒は何を言っているのかわかりません

書かれている内容の細かな解釈は諸説があるので、
教科書には載せられなかったのでしょう。

そこで教師の側から説明します。

色はにほへど
 色は匂うように美しく照り映えていても
散りぬるを
 いつかは(花は)散ってしまう
我が世たれぞ
 私たち この世の誰が
常ならむ
 永久に変化しないでいることができようか(いつかは死んでしまう)
有為の奥山
 いろいろなことがある(人生の)深い山を
今日越えて
 今日も越えて(いくのだが)
浅き夢見じ
 浅い夢など見ることはしない
酔ひもせず
 心を惑わされもしない

「色」は「色即是空」の「色」で、
形あるもの、認識の対象となる物質的存在の総称です。

仏教では、万物の本質は実態のない空しいものであり(色即是空)、
空であることがこの世のすべての事象を成立させる道理である(空即是色)と教えています。

これは生徒には少し難しいので
  • 今匂うように咲き誇っている桜の花も、必ず散ってしまう定めにある
くらいに訳しておいてよいでしょう。
ただし「色は」ではなく「色葉」であり、桜と紅葉のことを指しているという説もあります。

「常」は恒常不変の「常」です。世の中誰でも永久に生き続けることはできません。

「有為」は因縁によって起きる一切の事物のことです。
世の中の全ての現象は因果関係によって成り立っています。
複雑に絡み合って発生している無常の現世を、どこまでも続く深山に喩えたものです。

最後の二行を
  • 有為の奥山今日越えて   (迷い多く悲しい奥山を越えて行こう)
  • 浅き夢見じ酔いもせず   (人生の儚い栄華に酔わないように)
と訳すこともできます。
「いろは歌」には「こう訳す」という定説がないのです。

この意味を押さえてから、もう一度「いろは歌」を音読させます。

当然歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに直した読み方です。
これを暗誦させるのです。

旧仮名遣いの「いろは歌」を暗誦させても、今後の古文学習にはつながりません

意味がわかれば正しく音読できる……音読することで意味がよりはっきりわかる
これが中学校における古文の学習の基本だと思います。

「読書百遍意自ら通ず」ですね。

終末 古文を読んで気づいたこと
  • 書いてある旧仮名遣いではなく現代仮名遣いに直すことが大切だとわかった。
  • 何回も音読すると、古文の意味がわかってくる。音読を一生懸命やりたい。
等に気づいていれば十分だと思います。

時間が余ったら 1

「いろは歌」の全く異なる解釈について教えてあげましょう。

「金光明最勝王経音義』(こんこうみょうさいしょうおうきょうおんぎ)(承曆3、1079)という仏教の解説書の冒頭に「いろは歌」が載っています。この「いろは歌」は7音で区切られています。

 いろはにほへ
 ちりぬるをわ
 よたれそつね
 らむうゐのお
 やまけふこえ
 あさきゆめみ
 ゑひもせ

それぞれの行の下の文字だけを読むと
  • とかなくてしす(咎なくて死す)
つまり「罪がないまま死ぬ」となります。

このことは昔から知られていて、江戸時代の国語辞書にも記されていたそうです。

そのため、当時の学者には
「忌まわしい言葉が含まれているのはよくない」
「子どもの手習いには『あいうえお』を教えるべきで『いろは歌』を教えても良いことはない」
と考える人もいました。

『いろは歌』は作者不明ですが、この説に立つ場合は、
藤原氏に左遷され憤死した菅原道真や
刑死したとされる柿本人麻呂が作者ではないかと考える人もいるようです。

時間が余ったら 2

平成25年度の全国学調国語B問題をやらせるのも一興かも知れません。

ここれは「いろはかるた」に関する説明的文章の読解問題になっています。



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ブログを始めて三ヶ月経ちました。

生徒は、ツイッターとか、SNSとかやって、

生徒指導事案に発展することがあります。

こういうブログも、

そういうのをやるとアクセスが伸びると言いますが、

私は昔人なので、

やったことがありません。(やり方がわかりません。)

よろしければ、

ご覧になった感想等をお送りいただけますと、

私の励みになります。

(稗田先生にお伝えするかどうかは、内容によります。ごめんなさい。)

今後とも、十種神宝をよろしくお願い申し上げます。

 十種神宝 中学国語 学習の手引き

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関西電力の役員が、原発のある福井県高浜町の元助役から多額の金品を受け取っていた問題はご存じのことと思います。
この問題について関西電力は調査委員会を立ち上げ調査をしましたが、
「内部の調査ではダメだ」と言われて、会社から独立した社外委員(弁護士)のみから構成される第三者委員会を設置し、調査をし直すことになったことは
ニュースなどでもご存じのことと思います。

内部の調査では誰も信用してはくれないのです。

これは、私たちの授業についても言えることです。

授業は「教師」と「生徒」と「教材」とで成り立っています。
教師は生徒を評価し、生徒は教師を評価しています。
(教材は生徒と教師の両方から評価されますが、教材を選んだのは教師ですから、教師に評価は返ってきますね。)

では授業そのものは誰が評価するのでしょう。

「観世座」という劇団の役者兼オーナー兼プロデューサーであった世阿弥は、劇団存続のためにはどうしたらいいかを考え抜きました。
役者の修行方法から、いかにライバル劇団に勝ち、観客の興味をひくにはどうすべきかなど、
後継者に託す具体的なアドバイスを記したものが、彼の伝書(『花伝書』など)です。

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 その中に「離見(離見の見)」という言葉があります。
自分の姿を距離をおいて観察すること、演者が観客の立場で自分の姿を思い描くこと
と言われています。

自分の姿を常に客観的に眺め評価し続けることの大切さをいっているのですね。

「自分の姿」を「授業の姿」と考え、
「人気」を「評価」と考えてみましょう。

「観客」は誰でしょう。

私たちは「授業」をいかに成立させるかに心を砕いています。
いってみれば「授業(教室)」という劇団の役者兼プロデューサーです。

授業は「生徒」と「教師」と「教材」とで成り立っていると言いました。

教師も生徒も「授業」を構成する要素であって「観客」ではありません。
教師は生徒の、生徒は教師の評価しかできないのです。
教師も生徒もその場では「授業の姿」を評価できないのです。
(それ以上に観客として振る舞う生徒いたら、それだけでその授業はアウトですね。)

「授業」全体を観客の立場で評価できるのは、
「授業」というフィールドから離れたところにいる人だけです。

だからこそ「離見」と呼び、その気持ちを持ち続けることが大切なのですね。

「よい授業」であるかどうかは、自己満足は論外、生徒の評判などで決めてはいけません。

1時間で生徒がどのように変容したかを測定するのが適当だと思います。

「20年後、30年後にその成果が現れるのが教育だ」と言う人もいますが、その時誰も責任をとることができません。無責任な発言だと思います。

そして、その評価を下すのは、「教師」と「生徒」以外の第三者……
参観者」以外にいないと思います。

参観者の目」を常に意識し続けることが離見であり、授業を向上させる条件だと思います。

授業を公開し自分の授業を参観者の目にさらすことは大切なことなのです。

そして、常に参観者の目を意識した授業を行うことは、
常在戦場の心にもつながるものであり、
私たちの授業の技量を伸ばすと思います。
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