「希望」とは

 辞書的には「こうなればよい、なってほしいと願うこと。また、その事柄の内容。」「望みどおりになるだろうというよい見通し。」とあります。
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 文化祭でよく歌われる合唱曲でも「希望」というフレーズはとても明るい前向きな意味として使われることが多いようです。
 生徒も「希望」という語には、明るい前向きなイメージを抱いています。
 この作品の場合、本当にそのような前向きのイメージでとらえてよいのでしょうか。

 「」は、もとは「朢」と書いたそうです。
 「月」はそのまま月を、「壬」は人がつま先立ちをしている様子を表現しています。
 後に「臣」は「ボウ」の読み方を表す「亡」に置き換えられて現在の形になりました。

 ですから、望の原字は「臣(目の形)+人が伸びあがって立つさま」の会意文字です。
 それに月と音符の亡(ボウモウ)を加えたものが「望」という字になり、遠くの月を待ちのぞむさまを示しています。
 そこで「望」という字には、ない物を求め、見えない所を見ようとする意も含まれるようになりました。

 ルントウのことを回想するシーンと最後の故郷を離れるシーンに、次のような叙述があります。
  • 紺碧の空に、金色の丸い月が懸かっている。
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 主人公は、「望」の字の中にある、遠くに浮かんだ「金色の丸い月」を、伸び上がって待ち望んでいるのでしょうか。

 「」は、目を細かく織った布を表す会意文字です。
 目を細かく織った布は隙間がほとんどないことから「まれ」であることを意味します。
 「希み」は、めったにないことをこいねがうことから派生した意味です。

 ですから、「希」+「望」は、「ほとんどないことを求める気持ち」となります。

 この「希望」という言葉は、故郷から旅立つ場面に出ていきます。
  • 希望という考えが浮かんだので、私はどきっとした。
 この部分は、初発の感想で多くの生徒の印象に残っているフレーズです。
 原文でも「我想到希望」となっていますから、訳した際に使われた言葉ではありません。
 作者自身が積極的に「希望」という単語を使っていることがわかります。

 「希望」という言葉には、実現する可能性がほとんどない、激レアな理想の世界を、それでも待ち望まずにはいられないという気持ちが込められている、と考えられます。

 生徒が抱く明るい前向きな「希望」のイメージとは少し違いますね。

三つの「望」

 最後の「希望」に至る以前に、主人公は三つの「望」を味わいます。
 「失望」と「絶望」です。

 まず最初の場面で、「美しい故郷」を思い描いて帰省した主人公は、現実の故郷の姿に触れ「失望」します。
 そしてかつてのルントウの姿を回想する場面で、「金色の丸い月」の下に広がるスイカ畑に立つルントウ=小英雄の姿に「私はやっと美しい故郷を見た思いがした」と感じます。

 しかし現実のルントウの姿を見、「旦那様……」という言葉を聞いた瞬間、
  • 私は身震いしたらしかった。悲しむべき厚い壁が、二人の間を隔ててしまったのを感じた。私は口がきけなかった。
と「美しい故郷」の象徴だったルントウに「絶望」するのです。

 そして最後の場面で甥の言葉を聞き、冒頭のスイカ畑を連想します。
 しかしそこに小英雄の姿はなく「金色の丸い月が懸かっている」だけです。

 主人公が作品を通して思い描いていた「美しい故郷」とは「望」の字に含まれている月だったのかもしれません。

 理想の世界である「美しい故郷」「新しい生活」などというものが本当にあるのかないのか、それは誰にもわかりません。たとえて言えば「金色の丸い月」のようなものだと言えます。

 「金色の丸い月」は当然、「手に入りにくい」もので「偶像」のようなものです。

 ですから「地上の道」を、どんなに歩いて行っても月にたどり着くことはできません。

 しかし、月に向かって歩こうとしなければ、理想を見失い、理想を待ち焦がれることもなくなってしまいます
 だから「歩く人が多くなれば、それが道にな」り、更に「美しい故郷」や「新しい世界」に向かって歩いて行くことができるようになるのだ、と言いたかったのではないでしょうか。
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