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第19段落に「だから、いきなり『かっこいい。』と思えるのだ。」とあります。

第4段落の「なぜか『かっこいい。』と思った。」に対応する部分です。
「かっこいい」と思った理由が第5段落以降の本論であり、
この第19段落が結論部分といえるでしょう。

単純に考えると「だから」の直前
「つまり、レオナルドが絵画の科学を駆使して表現したものが、とてもよく見えてくる」
から「かっこいい」と思えると筆者は言っています。

ここでいう「絵画の科学」とは
第3段落で言う「解剖学」「遠近法」「明暗法」「など」ですが、
これらを駆使して描いたから「かっこいい」と思ったのではありません。

「絵画の科学を駆使して表現したものが、とてもよく見えてくる」から
「かっこいい」と思った
のです。

では「絵画の科学を駆使して表現したもの」とは何でしょう。

この文に「つまり」とありますから、
この文は直前部分「絵の構図がもっている画家の意図」を言い換えたものです。

ですから、第19段落の最後の部分をまとめると、次のようになります。
  • 絵画の科学を駆使して表現しようとした、絵の構図が持っている画家の意図がとてもよく見えてくるので「かっこいい。」と思える。
つまり筆者は
「絵画の科学を駆使したことがかっこいい」と言っているのではなく、
「画家の意図を、絵画の科学を駆使して表現していることがかっこいい」と言っているのです。

ですから、第19段落を要約すると、次のようになります。
  • 細部が落ちて消えてなくなっているため、絵の構図(絵の全体)がよく見えるようになり、絵画の科学を駆使して表現しようとした画家の意図がはっきりわかるようになったので「かっこいい」と思える。
このあたりは、単元プリントなどの解答には若干疑問符がつくものがありますから、注意してください。

では「画家の意図」とは何でしょう。

「絵の構図がもっている」ものとは
  • 「そこ(『最後の晩餐』)に描かれた人物たちの物語を、ドラマティックに演出」(第13段落)
することです。

キリストと12使徒の最後の晩餐の場面を生き生きと表現することだけでなく、
それがまるで観客(修道士たち)の目の前で演じられる舞台のように感じさせようとする、
ダヴィンチの舞台監督のような意図だと筆者は言っているようです。

つまり
「解剖学」は、
手のポーズはもとより「顔の表情や容貌」(第11段落)、動作等を
「一人一人の心の内面までもえぐるように描く」ため手段であり、

「遠近法」や「光の明暗」も
「あたかも本物の食堂の延長にあるようにすら見える」(第14段落)
ための手段に過ぎないのです。

この反証が第20段落です。
完成当初は細部の描き込みに圧倒されたために
「本当の魅力=絵画の科学を駆使して表現しようとした画家の意図」が見えなかっただろう、
と言っています。
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第20段落末の「レオナルドが描きたかったのは『それ』なのだ」の「それ」とは、
「そのような『全体』」であり、
「ぼんやりした形の連なり」です。
そこに「この絵が持っている本当の魅力」があると言っています。

これらのキーワードに傍線をひいて、
傍線同士をつないでいくと、よくわかります。

そして「本当の魅力」とは、
聖書における最後の晩餐の一瞬を登場人物のドラマとして生き生きと描き、
修道士たちを「まるでキリストたちといっしょに晩餐をしているかのような気持ち」(第16段落)
にさせることです。

この評論文は、
「絵画の科学」が「画家の意図」を実現させる手段として成功しており、
そこが「かっこいい」のだ、と言っているのではないでしょうか。


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