新卒当時、民間のアパート等に入る人はほとんどいませんでした。
東京などの大都市ではありませんから、もともと民間のアパート等の数が少なかったのです。
マンションなどは大金持ちが入るものという認識がありました。

独身の先生はその学校のある所に住むのが当然だった時代ですから、どの地区にも教員住宅がありました。
独身者用の六畳と四畳半、キッチンと風呂場の狭い部屋でした。
住宅料はとても安く、補助もでました。地域によっては住宅料とほぼ同額の補助があり、光熱費を負担すればよかったのでとても助かりました。
それらの教員住宅は、私が小学校の時の担任の先生も入っていましたから、築後10年以上は経っていたと思います。
私は「ブロイラーのゲージ」と呼んでバカにしていました。
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その後25年ほど経って、それらの教員住宅は地域の方から「お化け屋敷」と呼ばれ、「子どもが遊びに来ると『先生ってものすごく貧乏なの?』と言われて恥ずかしい」と言われたことを思い出します。

現在では入居希望者が激減しているそうです。

新卒当時、教員住宅に帰っても教材研究以外は特にやることもありません。
そこで夜遅くまで教材研究と称して職員室に残っていました。
当時コンビニはまだ普及していませんでしたから、若い先生たちで誘い合って、よく近くの食堂へ遅い夕食を食べて帰りました。

みんな同じ住宅に住んでいる人ばかりです。
アルコールが入って、学校のことや授業のことなど、とてもたくさんの情報交換をしました。
私より何年か上の先生は「ワリカン」と言ってたくさんお金を払ってくれました。
もう少し上の先輩は、職員室の人間関係が学校の裏情報や、それよりもっと悪いこともたくさん教えてくださいました。(詳細は自主規制させていただきます。)

当時の私の学年主任は、白髪の定年間近のおじいさんでした。
おじいさんと言っても60歳定年が一般化したのは昭和60年に入ってからです。
ですからまだ55歳より若かったはずです。

もうあの主任は私よりずっと年下になってしまったのですね……泣

国語が専門で、古典に関する本を何冊も自費出版されていました。
本の執筆の調査で旅行するときは鞄持ちとして連れていかれました。費用はすべて主任持ちです。
また週に一日公民館で古典の講義をなさっていて、そこにも毎週つれていかれました。

講義はどんな内容だったか覚えていませんが講義は8時頃に終わり、その後必ず行きつけの居酒屋へ連れて行ってもらい、たらふく飲んだり食べたりさせていただきました。
国語の話になると酔っ払って「お前はカミソリだ。カミソリじゃダメだ。鉈になれ。」と頭をピシャピシャ叩かれ説教されました。

今になって考えると、きっと息子さんが会社員になって上京しまった主任にとって私は最後の弟子のような気がしていたのかな、と思います。(不肖の弟子です。)

現在アクティブラーニングというのが流行りです。
アクティブラーニングは主体的・対話的で深い学びを目指すものです。
その過程で、自分と異なる認識に触れることにより主体的に自分の認識を変容させるところがポイントです。

これには他者とのコミュニケーションが必須です。
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勤務時間という縛りがあり、また、プライベートを大切にするのが現在の風潮です。
しかし他人との積極的なコミュニケーションなしに認識の変容は期待できません。

アクティブラーニングを通じて子ども達にそれを求める以前に、私たちのコミュニケーションの機会が少なくなっているような気がしてなりません。