十種神宝 学校の基礎・基本

公立の義務教育の学校に永きにわたりお勤めだった稗田先生の、若い先生方への昔語りです。学習指導要領や、それに伴って変わってきた先生たちの意識や授業のことなど、教育現場に起こってきた今や昔のことどもを書き記していきます。

 義務教育の現場に長くお勤めだった稗田先生からお聞きしたことどもを、拙いながらもまとめてみました。
 不易流行という言葉があります。この、教育の"流行"の中から、自分だけの"不易"を見つけていただければ、これに過ぎる慶びはありません。
                                   十種神宝 主人 太安万侶

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生きる力

 1990年代バブルが完全に崩壊し日本の不景気が始まった頃、
 阪神淡路大震災オウム真理教によるテロ等が起こり社会的にも不安・不安定な時代となりました。
 『クレヨンしんちゃん』の主人公野原しんのすけ君はこの頃に生まれています。
146640©臼井儀人/テレビ朝日
 「ゆとり教育」が始まったのもちょうどこの頃です。

 ゆとり教育は1987年生まれの人が中三の時に始まり、2001年生まれの人が小一の時に終わります。

 ちょうど新卒の先生たちの世代になるかもしれませんね。

 特に新卒の先生たちが過ごした小~高校時代、
 日本は平成不況・リーマンショックの中でデフレが進み、
 就職も2003年には大卒の就職率が過去最低の55%までに落ち込みます。

 激戦を勝ち抜いて就職したにもかかわらず社会に出てすぐに辞めてしまう若者が多いことが社会問題になりました。

 「失われた10年」と言われる時代です。

 学校は土曜日を休みとして完全五日制となり、「学力低下」が社会的な問題となり、校内暴力が多発しました。

 そんな時代の中で新卒の先生たちは育ちました。

   新卒の先生たちが学んだ「ゆとり教育」って何だったのでしょうか。

   1996年に文部省(現在の文部科学省)の中央教育審議会(中教審)が「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」の第1次答申の中で、
  • 我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力など自己教育力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。(中略)我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を、[生きる力]と称することとし、知、徳、体、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。
と述べています。

 それまでの「詰め込み教育」と言われる知識量偏重型から、思考力を鍛えることに重きを置いた経験重視型に教育方針を転換し、そのために学習時間と内容を減らしてゆとりある学校を目指したのです。

 1992年以降の3回の指導要領はこの「生きる力」を目指しています。

 そして思考力や問題解決能力などを重視し、個性を尊重しました。
 学習内容も体験的な学習や問題解決学習などの占める割合が従来よりも多くなり、評価も関心・意欲・態度を重視する方向となりました。(「新学力観」)

 新卒の先生たちは、この方針に従った教育を受けて育ってきたのです。

 「知識偏重教育」とは結果としての知識を大切にする教育です。

 では「知識」はどのようにして生まれるのでしょうか。

 何もないゼロから新たな知識を生みだすことはとても難しいことです。
 それが簡単にできる人を天才と呼ぶのだと思います。

 私たちが何かを考えたり思いついたりする場合、今頭の中にあるいくつかの知識を組み合わせたり変化させたりして新しい知識を生み出しています

 そしてそれには、論理的な演繹的な思考と直感的な帰納的な思考(*1)が必要です。
 そのための体験的学習や問題解決学習だったのだと思います。

 「生きる力」を育成するというのは、出口としての知識ではなく、その知識を生み出すための力をつけるということだったと私は考えています。

 「ゆとり世代」と言われ、
 「指示待ち人間が多い」「常識がない」「自分中心的」「自信満々だが実践力がない」「打たれ弱い」等、他の世代から滅茶苦茶に言われ、

 更に「ゆとり世代」は差別用語とまで言われたため、
 新卒のみなさんより後の世代は「さとり世代」と呼ばれるようになりました。

 しかし新卒のみなさんは「ゆとり世代」であることを恥じる必要はありません。

 みなさんこそ、新しい知識を創造する……その力を育てられた世代のはずです。
 そして、だからこそ、新指導要領で示される「生きて働く知識」を育てることができるのは、みなさんたちの世代しかいないと思います。

  *1) 演繹法と帰納法
 演繹法とは、一般的かつ普遍的な事実を前提として、そこから結論を導きだす方法です。例えば、「人間は哺乳類である」「哺乳類には血液がある」という2つの普遍的な事実を前提とした場合、演繹法では「人間には血液がある」という結論を導き出すことが可能です。このことから、演繹法は数学的な推論方法ともいえるでしょう。ただし、前提として選定した一般論や普遍的事実が誤っていると論理が破たんしてしまいます。逆をいえば、前提の選定さえ間違えなければ、非常に強い説得力をもつ推論方法であるともいえます。
 帰納法とは、さまざまな事実や事例から導き出される傾向をまとめあげて結論につなげる論理的推論方法です。帰納法で重要視されるのは、多くの事例に共通することをまとめることで、聞く者に「納得感」を与えます。例えば、「今朝テレビでハチミツの効能について報道していた。また、同僚のA君も毎朝ハチミツを摂取していて体調がよくなったとのこと。他にも、定期購読している雑誌の中でハチミツが体に良いと紹介されている。よってハチミツは体調の改善に効果がありそうだ。」という帰納法による説明では、「テレビでの報道」「同僚の体験談」「雑誌の記載」といった事象を総合して「ハチミツが体に良い」という結論を導き出しています。この例の場合のように、複数の具体的事実から同一の傾向を抽出して、結論(推論)に持っていくのが帰納法です。さらにここでは、テレビ、同僚の話、雑誌と3通りの経路から情報を入手していることで、偏った情報ではないという印象が深まるため、聞く者に納得感を与えやすくなっています。
 「風が吹けば桶屋が儲かる」の話で、「風が吹く」→「砂埃が立つ」→「目の不自由な人が増える」→「三味線を習う」→「三味線の材料の猫がいなくなる」→「鼠が増える」→「鼠が桶をかじる」→「桶屋が儲かる」と順序よく考えていくのが演繹法、途中を一足飛びにして「風が吹いて砂埃が舞う」という事実と「桶が売れるので桶屋が儲かる」という二つの事実を直感的に結びつけるのが帰納法です。
 人間の思考は、どちらを使って、ということはありません。何かピンときたら、それが正しいかどうか、演繹法や帰納法を使って考え、答えに確信を持っていきます。そして、この思考を身につけるには、体験的な活動や問題解決学習が適しています。このことを明確に狙ったのが「総合的な学習の時間」だったのだと思います。


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 「キャリア教育」の一環として職場体験学習が各校で計画されています。

 1960年代、池田勇人内閣は「働くということは、はたを楽にするということでございます」のキャッチフレーズで「所得倍増計画」を掲げ、高度経済成長をもたらしました。
 この当時は、キャリア教育は「進路指導」と言われていました。

 しかし高度経済成長下の金の卵が絶滅危惧種になって以来、中学校で進路指導と言えば進学指導のことを指すようになりました。今でも進路指導の係の先生の仕事は主に進学指導のことを指す場合が多いようですね。

 それから40年が経ち、偏差値の高い高校・大学へ行けば一生安心……そんな右肩上がりの幸せな時代は終わりました。バブルが崩壊した2000年頃には、ニートとかフリーターが増え始め、社会問題になりました。
 就職氷河期と言われ、苦労して就職したにもかかわらず若者たちが「就職後3年でやめていく」と言われたのもこの頃です。

 これに対し時の政府は「将来を担う若者たちに勤労観、職業観を育み、自立できる能力をつけること」を目的に「キャリア教育」を推進しました。「生きる力」という言葉が使われ始めたのもこの頃です。

 バブルが崩壊した当時の文科省は、20年、30年後を見越して子どもたちに「生きる力」をつけようと考えました。
 この流れの中で、特別活動や総合学習の枠の中で「生徒が事業所などの職場で働くことを通じて、職業や仕事の実際について体験したり、働く人々と接したりする学習活動」(文部科学省)として職場体験学習が始まったのです。
 ちょうど総合的学習の時間がスタートした頃です。

 そして失われた20年が経ち、バブル崩壊の頃に心配されていた「未来」がいよいよ到来しました。

 現在文科省はキャリア教育の必要性を次のように述べています。

  • 少子高齢社会の到来、産業・経済の構造的変化や雇用の多様化・流動化
  • 就職・就業をめぐる環境の変化
  • 若者の勤労観、職業観や社会人・職業人としての基礎的・基本的な資質をめぐる課題
  • 精神的・社会的自立が遅れ、人間関係をうまく築くことができない、自分で意思決定ができない、自己肯定感を持てない、将来に希望を持つことができない、進路を選ぼうとしないなど、子どもたちの生活・意識の変容
  • 高学歴社会におけるモラトリアム傾向が強くなり、進学も就職もしなかったり、進路意識や目的意識が希薄なまま「とりあえず」進学したりする若者の増加
 終身雇用制度は崩壊し、AIや外国人労働者、非正規採用者の職場に占める割合が増加する中、生徒たちにリアルに「生きる力」をつけてあげなくては、文字通り「生きる」ことのできない時代になったのです。
 自分のことなのに、ぬるくなり始めたお風呂から出られなくなったような(風呂から出れば寒い。しかし、このまま風呂につかっていてもお湯は冷めていくだけの)現状に対し何もしようとしない(「できない」ではありません。)若者たち……。年金制度も行き詰まる中、どうやって生きのびることができるのでしょうか。

 現在のキャリア教育は、これをなんとかしようとする試みなのだと思います。

 ですからキャリア教育……「職業観・勤労観を育む学習」では「人間関係形成能力」「情報活用能力」「将来設計能力」「意思決定能力」を培うこと(文部科学省)が求められているのです。

 職場体験学習は、それを行うこと自体が目的なのではありません。
 ましてやお世話になる事業所は「教える」ことのプロではありません。

 現在、職場体験学習の日そのものは「学校行事」か「総合的な学習の時間」としてカウントされていると思いますが、この学習を通して、何を学ばせ、どんな力をつけるのかを明確にし、それを生徒におろしていくのは、事前・事後の「総合的学習」あるいは「特別活動」に委ねられています。
 (だいたい、希望した職場に就職できる人間なんて、今時ほとんどいません。それが現実であることをふまえ、どう指導し、どう「学習のねらい」を達成させるかが、私たちの仕事ですよ。また、学習の成果が「キャリア教育」のねらいと合致しているといいですね。)


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 令和の御代になりました。ここで戦後の指導要領の流れをごく大雑把に復習してみましょう。
 偏見に近いような個人的な見解も入っているかも知れませんが、ご容赦ください。
  
 1950年代、学習指導要領試案等に見られるように、デューイの経験主義教育が流行しました。子どもの生活経験や興味、あるいは地域社会の課題をもとに学習を進めよう、という考え方です。しかしこれは「這い回る経験主義」と言われ、“読み書き算”が定着しない等の批判があがりました。

 1960年代に登場するのがブルーナーの考え方です。ブルーナーは教育過程を認知能力の発達過程と考え、子どもの側の主体的探究活動を通じて基本的概念を発見させる発見学習を提唱しました。(これは今でも、課題解決学習の考え方に引き継がれていますね。)
 この考え方に基づき、教材を構造化し、教育機器を活用しながらの記憶(暗記)中心の能力主義教育が展開されました。「受験戦争」という言葉が一般化したのもこの頃です。

 1970年代になると、進学率が更に上昇し、つめこみ教育に対する学習の不適応という問題が表面化してきました。そこで「人間性尊重の教育」を合い言葉に、個性や能力を尊重し人間性豊かな子どもの育成を目指して各教科の指導が再考されました。小学校では「ゆとりの時間」が創設されたのもこの頃です。

 限られた時間の中で「ゆとり」を持つには教育内容を精選しないといけません。そこで1980年代になると、教育現場では「基礎基本とは何か」という問いがしきりに発せられるようになりました。同時にゆとり教育への行き過ぎの批判があがります。ハウツーを求め「教育技術の法則化」運動が現場に広まったのもこの頃です。

 元号が平成に改まった1990年代は、「新学力観」(体験的な学習や問題解決学習によって育てられる力を重視する学力観。関心・意欲・態度を重視する。)に基づいて、個性をいかす教育を目指すようになります。
 このため教科の学習内容はさらに削減され、生活科の新設、道徳教育の充実などで「社会の変化に自ら対応できる心豊かな人間の育成」が謳われました。みなさんが生まれたこの頃、「分数のできない大学生」が社会問題になりました。

21世紀に入り、2002年の改訂では「自分で課題を見つけ、自ら学び、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力……生きる力」の育成が求めれれました。学校完全週5日制が実施され、「総合的な学習の時間」が必修になりました。
 しかしこの時期、日本はPISAの順位を大いに下げ「ゆとり教育」に対する批判はますます強まりました。このため2003年には早くも一部改訂が行われ、学習指導要領は「最低限」の内容であり、それを超える「発展的な学習内容」も教えることができるようになりました。

 そして2011年の改訂では「脱ゆとり」の方向に舵が切られ、「ゆとり」でも「詰め込み」でもない、知識、道徳、体力のバランスのとれた力としての「生きる力」の育成が謳われます。
 総合的な学習の時間は大幅に削減され、五教科及び保健体育の授業時数が増加しました。小学校5,6年に「外国語活動」の時間ができたのもこの時です。そして2018年の一部改訂では「特別の教科」としての「道徳」が登場し、小学校では英語が必修になります。

 今回の令和最初の改訂では「主体的・対話的で深い学びアクティブ・ラーニング)」の導入やプログラミング教育の充実が図られようとしています。(しっかり勉強してね♡)
  
   このような動きを「経験主義と能力主義の間を、振り子のように動いている」と批評することは簡単なことです。また、現状の問題点を指摘することは悪いことであるとは考えません。
   しかし……なぜ歴史を学ぶのか……それは未来に生かすためであるとするならば、私たちは学習指導要領の歴史の中から、何を考え、どんな信念をもって生徒の前に立たなくてはいけないのでしょうか。

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©安能務・藤崎竜/集英社・「覇穹 封神演義」制作委員会
 太上老君は『西遊記』や『封神演義』で、神様よりずっとエライ仙人という立ち位置で登場する人物です。「道徳天尊」と呼ばれることもあります。
 みなさんには中国の春秋戦国時代、諸子百家の老荘思想で出てきた老子と言えばわかるでしょうか。

 私が「道徳」という言葉を聞いてまず連想するのが『老子』のこの一節です。

  大道廃、有仁義。(大道廃れて、仁義有り。)
       智慧出、有大偽。(智慧出でて、大偽有り。)
       六親不和、有孝慈。(六親和せずして、孝慈有り。)
       国家昏乱、有忠臣。(国家昏乱して、忠臣有り。)

      <現代語訳>
      (無為自然の)大いなる道が廃れたので、仁義の概念が生まれた。
      知恵を持った者が現れたので、人的な秩序や制度が生まれた。 
      親兄弟や夫婦の仲が悪くなると、孝行者の存在が目立つようになる。
      国家が乱れてくると、忠臣の存在が目立つようになる。
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 人の道が失われつつあるから「道徳」がことさら言われ始めたのでしょう。
 この「道徳」を定着させるために頭の良い人たちが学習指導要領等をつくったのだと思います。

 この文言が載っている『老子』は上下二編それぞれ以下の書き出しになっています。

  道可道、非常道。名可名、非常名。
  (道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず。)
      上徳不徳、是以有徳。下徳不失徳、是以無徳。
  (上徳は徳を徳とせず、ここをもって徳あり。下徳は徳を失わず、ここをもって徳なし。)

      <現代語訳(意訳)>
 人が道と名付けた道は、真の道ではない。だから永遠不変の道理ではない。名にしても言葉にしても、人間がいて初めて存在するものだ。だから人間から見た一面的なものであり、物事の本質ではない。
 徳の高い人は徳を自慢しない。だから徳がある。低い徳の人は特にこだわる。だから徳がない。

 この上編の「道」、下編の「徳」の二文字をとって『老子』は『道徳教』とも呼ばれています。
 だから「道徳」というとすぐに『老子道徳教』を思い出すのです。(老荘思想は儒教的な「道徳」とは相容れないものなんだけどね。)

 タテマエをしたり顔で言う人はうさんくさい人と思われます。まさに「ここをもって徳なし」です。
 ひるがえって私たちが道徳の授業をするとき、「○○しなくてはいけない」「○○すべきだ」と指導書にあるような結論を安易に生徒に言ってはいないでしょうか。
 それを語る時のあなたの顔を、生徒はどのようにみているでしょう。「下徳は徳を失わず」(徳の低い人物ほど徳目にこだわる)になってはいないと、……そう信じています。

 よく「教師は後ろ姿で教える」と言われます。これが「上徳は徳とせず」だと思います。
 しかしわたしたちは決して上徳などではありません。

 確かに学問の面では、わたしたちは生徒に比べ、圧倒的に経験を積み知識をもっています。ですから生徒を指導し感化できるし、生徒も尊敬し模倣しようとしてくれるのではないでしょうか。
 
 しかし人格の完成(道徳的価値の追求)という人生の目的に対しては、「かくありたい」と教師も生徒も共に人間として羨望する存在に過ぎません。

 ならば志や愛や妬みやさげすみなど、様々な矛盾する人間的感情を生徒と共感することしかできない……「師弟同行」というわけですね。

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 「正義の味方」という言葉があります。
 『月光仮面』の原作者川内康範が、この主題歌の中で使ったのが最初だそうです。
DWwBKFvVAAAqzyP©川内康範/宣弘社
 「正義の味方」について氏は次のように述べています。
  
 月光仮面は月光菩薩に由来しているんだけど、月光菩薩は本来、脇仏なんだよね。脇役で人を助ける。月光仮面もけっして主役じゃない。裏方なんだな。だから「正義の味方」なんだよ。けっして正義そのものではない。この世に真の正義があるとすれば、それは神か仏だよな。月光仮面は神でも仏でもない、まさに人間なんだよ。
  
 氏は、戦争の経験から「絶対の『正義』などありはしない」と考えました。世の中のどこかに正義があるのではなく、正義は一人一人の心の中にしかないという考えです。
 そして、私たちはその正義の心の味方になることしかできないのだ、ということだと思います。

 正義の心を、学習指導要領に示される「道徳性」に置き換えてもよいと思います。
 世の中に絶対的な道徳などないかもしれません。しかし、人間は誰もが「道徳性」を持っているのではないでしょうか。
 そして私たちにできることは、生徒の持っている「道徳性」の味方となり、悪に負けそうになった時に救いの手を差し伸べることができるだけだと思います。

 「正義の味方」は、必ず圧倒的な武力をもっています。
 月光仮面の拳銃、ウルトラマンのスペシウム光線……時代が下るごとに、正義の味方の武器は強力なものに進化しているようです。
 正義を助け悪を滅ぼすには、どうしても圧倒的な強さが必要となるからなのでしょうか。
a473e262©円谷プロ
 今回の指導要領の改訂で、いじめや自殺問題への対応の充実がポイントとなりました。
 生活の中で生徒の差別的な言動を目撃したら……。

 差別的な言動をしている生徒の心の中の「正義」が負けているのです。
 (「正義」が弱くなったのか、「悪」が強くなったのか……これは相対的な問題だと思います。)
 「悪即斬」ではありませんが、速やかに悪を殲滅しなくては、差別されている側ばかりでなく、差別している側も不幸です。
 ためらわずに圧倒的な「力」で悪を滅ぼしましょう。(でも、体罰はダメ……絶対!
 それが「正義の味方」としての私たちの役目なのだと思います。

 そんな「正義の味方」も、いつかはいなくなる時が来ます。

 『ウルトラマン』の最終回では、ウルトラマンは宇宙恐竜ゼットンに敗れ、
 『ウルトラセブン』の最終回では、ボロボロになったセブンに帰還命令が下ります。

 ……「地球は自分たちの手で守らなければならない。」
 地球の防衛チームは、自分たちの手で怪獣を倒し、正義の味方は故郷へ帰るのです。

 テレビの「正義の味方」と同じように、私たちもいつかは生徒の目の前からいなくなる時がきます。
 あなたが今の生徒の前から消える異動の日までに、生徒一人一人が「正義の味方」に頼らずに悪に打ち勝つ力を身につけることこそが、あなたの役目なのではないでしょうか。

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ダウンロード (3)©石ノ森章太郎/東映
 石ノ森章太郎の『人造人間キカイダー』(萬画版……テレビ版とはストーリーが違います。)のお話です。

 キカイダーは、光明寺博士が「絶対に殺されない自然警備隊員」として造られたロボットです。
 研究を援助するギル教授(プロフェルサーギル)の企みに気づいた光明寺博士に、悪の命令に従わないための「良心回路(ジェミニィ……『ピノキオ』に出てくるコオロギの名前です。)」を埋め込まれました。
 しかし、完成直前に光明寺博士がダークの襲撃を受けたため、不完全なままの良心回路を持って誕生しました。

 人間の姿の時の名前はジロー。悪の命令を出す「ギルの笛」に反応し、苦しんだり自分の意志と無関係に悪事を働かされたりしてしまいます。

 物語終盤、ジローは仲間達と共にギル・ハカイダー捕らえられます。そして悪の命令に従う「服従回路(イエッサー)」を組み込まれます。
 良心回路を持たない仲間達はギルの僕(しもべ)になりますが、ジローは服従回路と不完全な良心回路を併せ持ったことによって人間と同じ善悪の「心」を持つようになります。

 そのため嘘をつくことが出来るようになり、最後の戦いにおいては、敵の僕に成り下がってしまった仲間たちを、次いでハカイダーを一撃で葬ります。
 戦いが終わってジローは、善と悪との「心」の戦いに苦しみながら一人でその場を立ち去るのです。
2485141ee0df452ec6715f74643ac4b4©石ノ森章太郎
 一年生の道徳に「自然教室でのできごと」(光村図書)という教材があります。
 自然教室で登山の前日に夜更かしをして体調を崩した生徒の物語を通して、中学校生活の始まりに際し,規則正しい生活の重要性について考えさせ、よりよい生活を送ろうとする実践意欲と態度を育てるのが目的です。

 もしジローが完全な良心回路を持っていたら、登山の前日の夜更かしなど考えることすらできなかったでしょう。
 逆に服従回路しかなかったら、迷わず夜更かしをしたことでしょう。
 不完全な良心回路と服従回路を持ったジローは、夜更かししようかどうしようか、悩んだに違いありません。

 「夜更かしはいけない」「規則正しい生活を送るのはいいことだ」ということがわからない中学生はいません。
 しかし、中学生も含めて、「わかっちゃいるけど、やめられねぇ……」というのが人間なのではないでしょうか。

 「本音と建て前は別」と割り切ってしまっては、心は成長しません。
 服従回路または完璧な良心回路しか持っていないとしたら、それはロボットだと思います。
 服従回路が告げる悪の誘惑があり、それに対抗する不完全な良心回路があって、その間で葛藤し続けるからこそ“人間らしい”のだと思います。

 今年から本格的に道徳が教科として導入されました。
 生徒が気づかない「徳目」を示すことは重要なことですが、「徳目」が示す行動規範に従うことを要求し、それに反することを「悪」と決めつけることは、生徒の心に服従回路を埋め込もうとする行為と大きな違いはありません。
 そしてそれが「本音と建て前は別」という意識を生み、もともと生徒の心にある悪の心を増長させることにつながるのではないかと思います。

 道徳の授業では、まず誰もが持っている「心の葛藤」を認め、その中で良心回路を強く育てていけたら、と考えています。

 これは教科としての道徳ではなく、生徒指導全般にも言えることかもしれませんね。


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 数年前に、匿名の「伊達直人」氏が恵まれない子ども達にランドセルなどをプレゼントしたことが話題になりました。
 「伊達直人」とは、タイガーマスク(原作:梶原一騎。マンガ・アニメの初代です。実在のプロレスラーではありません。)の本名です。
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©梶原一騎・辻なおき/東映動画
 伊達直人は、孤児院出身で、悪役レスラー養成機関「虎の穴」にスカウトされ、レスラーになります。
 終戦後まもなく、世の中に戦災孤児があふれている時代でした。

 「強ければ それで いいんだ/力さえ あれば いいんだ」
 (『孤児のバラード』作詞:木谷梨男 アニメ『タイガーマスク』副主題歌

 とばかり、当時の日本も「力」を求めて邁進していた時代でした。
 そして、その頃は「学歴」が貧困から抜け出す唯一の手段でした。

 時は移り、世の中はグローバル化が進み、再び「強ければ それで いい」「力さえ あれば いい」という新自由主義の考え方が広まってきました。
 こんな時代の中で日本が生き残るにはどうしたらいいのか、40年程前(80年代頃)から教育界でも真剣に模索されてきていました。

 強烈な競争社会の中では、自分に必要な“もの” “こと”は何かを自分で判断し、貪欲に吸収し、成果に結びつけていかなくては、生きのびることはできません。

 そこで生まれたのが「生きる力」です。

 「生きる力」で求められるのは、お互いの考えを尊重し、意見を擦り合わせ調整して一つの結論を導く「話し合い」の力ばかりではありません。

 それよりも大切なのは、まず自分で考え、更に他者からの情報を貪欲に取り入れることで、自分の中で結論をよりよいものにしていく、個人主義的な力です。
 他人に協力させることはやぶさかではありませんが、自分が必要とする情報を集め、自分自身が処理し、自分から行動できるようになりなさい、というのが「生きる力」なのだと思います。

 口を開けていれば棚からぼた餅が落ちてくる、そんな待ちの姿勢では餓死するばかりです。そして「貧困からの脱出」という点では、日本よりもはるかに東南アジア諸国の方が切実です。
 ハングリー精神旺盛な諸外国と、生き馬の目を抜くような競争に打ち勝って生き残るのためには「生きる力」が必要なのだと思います。

 この力をつけるために、これからの授業は、
 活発に意見交換をする場面よりも、静かに自分の追究をし、追究の中で自分の疑問や意見を相手に「聴く」ことで、自分の考えを一層確かなものにしていく
 ……「相談する」とは少し意味が違う、そんな姿が求められるのではないかと思います。
 自分で頭を動かし体を動かさない者は、これからの競争社会の中で餓死するばかりなのです。
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 文科省の考えるグループ学習とは、この活動を円滑に行うための装置という側面もあるのではないでしょうか。

 これからの授業で大切なのは、どのように個の追究を保証するか、ということでしょう。
 この「追究する」という行為や心を育てることこそ、現代社会の中で生き延びるために大切なものであると思います。

 自分は目の前の生徒達にきちんと競争社会で生き残る「力」をつけているか。
 安易に「対話的な学び」と言いながら、安易に「話し合い」という発表会で済まそうとしていないか。

 日々の授業を振り返ってみましょう。

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ダウンロード (1)話し合いは終わりだ
ガメレオジン(『仮面ライダー(スカイライダー)』©石ノ森章太郎/東映

 「では、グループでこの問題について話し合ってみましょう。」

 授業でよく聞く台詞です。
 指導要領の文言からは消えましたが「アクティブ・ラーニング」という言葉が、「問題解決型学習」という言葉とともに広まるにつれ、クローズアップされてきました。
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 そして、問題解決のためには話し合いが必要で、それがアクティブ・ラーニングだ、という考え方が生まれてきてしまったような気がします。

 本当にそれでいいのでしょうか。

 「アクティブ・ラーニング」は2012年8月中央教育審議会答申では次のように説明されています。

 「学習者である生徒が受動的となってしまう授業を行うのではなく、能動的に学ぶことができるような授業を行う学習方法です。」
 生徒が能動的に学ぶことによって「認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る」内容だそうです。


 まあ、一方的に講義をする授業に比べれば、「話し合い」は生徒が授業に参加する点で「能動的に学ぶ」姿は見られるでしょう。
 しかし、もともと「話し合い」というのは、異なる意見を調整し同意を得るための手段です。利害や意見の異なる者同士が互いに調整しあって答えを出すことが目的の活動なのです。

 確かに学活の「話し合い」は、クラス目標を考えるとか、クラスマッチのチーム分けをどうするかとか、というような問題を解決するためには有効な手段だと思います。
 しかし、例えば数学の問題を「話し合い」で解決しても良いのでしょうか。
 
 「話し合い」と「アクティブ・ラーニング」とは目的が違うのです。
 「アクティブ・ラーニング」は、あくまで生徒が能動的に学ぶための手段であり、生徒を能動的に学ばせることが目的なのです。

 アクティブ・ラーニングの手法はいくつかありますが、
  • Think-Pair-Share(他者の意見と比較をしながら、自分の考えを明確にしたり深めたりしていくのに適している。)
  • ラウンド・ロビン(ブレインストーミングの簡易版。新しい考えを次々に生み出していくにに適している。)
  • ピア・レスポンス(レポートやプレゼンテーションのアウトラインを他者の目を通して検討する。書き手と読み手の視点を体験するのに適している。)
 などが、授業で行われる主なものだと思います。
 これらはいずれも、その生徒に「考える力」をつけるための手段に過ぎません。ただ単に対話すれば、議論すればいいということではないのです。

 具体的に考えてみましょう。
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 例えば理科に、「化学変化と物質の質量」という単元があります。
 化学変化で物質の見た目は変わってもその背景には変わらぬ構造や法則があります。この構造や法則を理解するが一つの目標です。

 生徒にとって、目に見える事象との対話だけで解決するのは難しいと思います。
 そこで他者の意見や教師のアドバイスを聞く、つまり他者と対話することによって解決に近づくこともあります。
 そしていろいろな情報を自分の中で考え合わせ、自分自身と対話していくことによって解決していくものなのではないでしょうか。
 安易に知識を与えるのではなく、生徒一人一人が自分の考えを持って、それを対話によって修正していく過程に「学び」があるのだと思います。

 しかし、そういった構造や法則を既に知識として持っている生徒は、どの学校のどの教室にもいます。そして、それを他人に吹聴したがる生徒もいるかもしれません。
 そういう生徒には「なぜそう考えたの?」「どうやって証明したの?」と聞いてあげましょう。
 (本で読んだり人に聞いたりしたことをそのまま信じるのって、宗教的で非科学的だよね。)
 そしてそれを、「どうやったら確かめられると思う?」と全体に投げ返す方法もあります。
 「知っている生徒がいて答えてしまったら終わり」というのは知識偏重の姿勢でアウトです。生徒への切り返しは、教師の技量が問われるところです。

 また英語科では、ただ対話活動をやらせればいい、というわけにはいきません。なぜなら、生徒の「学び」が「アクティブ」にならないからです。
 授業では「こんな表現を身につけさせるために、どんな活動をさせればよいのだろう」から「こんな表現をしたくなるような活動は、どんな活動がベストだろう」という発想の転換が必要です。

 今までの授業では「先に英語表現ありき」という授業が多かったような気がします。
 ジョークのネタになっている “Is this a pen?” “Yes.it's a pen.” という対話とか“I am a boy.”というような文がその例です。「そんなの見りゃわかるだろ」「なぜそれを言う?」と突っ込みどころ満載の不自然な文が「先に英語表現ありき」の考え方です。

 例えば「過去形を使わせる」ために「昨日何を食べましたか」と互いに質問させる授業があります。
 生徒は、なぜ昨日食べたものを友達に聞かなくてはいけないのでしょう。また、なぜその質問に律儀に答えなくてはいけないのでしょう。「ノーコメント」ではいけないのでしょうか。
 これが「先に英語表現ありき」の授業です。

 「過去形を使うために会話する」という考え方の先にあるのがアクティビティ英語を使っての活動・体を使っての遊び)です。
 アクティビティは確かに必要な活動だと思います。しかし、決まったパターンを使った活動=アクティビティは、お子様向けの英会話教室で盛んにやっていることであり、AIの最も得意とするところです。
 指導要領で目指す、英語科における「言語活動の充実」とは「昨日食べたおいしかったものを友達に伝えたいから過去形を使う」ように仕向けなさい、ということだと思います。 
 実生活で生きてはたらく言葉の力を育てるには、表現しようとする気持ちを誘い、「この表現を使ってみよう」「自分の言いたかったことが言えた」と感じられる授業場面(英語の使用場面)をいかに設定するかが鍵となるのではないかと思います。
 
 これからは「伝えたいことが先にある学習活動」を単元や授業に位置づけることを大切になってくるのではないでしょうか。
 これはAIにはできないことだと思います。しかし、使わせたい表現を使いたくなるような授業の場面設定というのは、とても難しいことです。まさに教材研究の力量が問われることになると思います。

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 昔、ゲッターロボというアニメがありました。
 合体ロボットの元祖で、今のスーパー戦隊シリーズのロボットにも強い影響を与えています。
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©永井豪・石川賢/東映動画
 ゲッターロボとは、イーグル号ジャガー号ベアー号の3機のゲットマシンが合体する巨大ロボットです。
 3機の組合せで、次の3タイプに変化します。(おもちゃでの再現は不可能でした。)
  •  空陸戦を得意とする(一番ポピュラーな)ゲッター1 
  •  陸での高速移動及び地中活動が可能なゲッター2(ドリルは男のロマンだ) 
  •  重量戦及び水中活動に適したゲッター3
 ゲッターロボ自身強かったのですが、合体する前のゲットマシンにも
  • 運動性の高さ(赤い機体のイーグル号 ゲッター1の頭部になる)
  • 空力性の高さ(水色の機体のジャガー号 ゲッター1の腹部になる)
  • 安定性の高さ(黄色い機体のベアー号 ゲッター1の脚部になる)
 と、それぞれの特性と、高い戦闘能力がありました。

 今回の学習指導要領で言う「主体的・対話的で深い学び」というのはゲッターロボと同じです。
 「主体的・対話的で深い学び」とは
 「
主体的な学び」「対話的な学び」「深い学び」という、まったく特性の異なる3台のゲットマシンが合体し、三つの心が一つになったゲッターロボのようなものだと思います。

 中教審答申も、
 「主体的な学び」「対話的な学び」「深い学び」はそれぞれ固有の授業改善の視点である。
 と説明しています。

 「主体的な学び」とは、生徒が、見通しを持って粘り強く学習に向わざるを得ない授業をしなさい、学習の後にそれまでの学びを振り返って次の学習につながる授業をしなさい、ということです。

 「対話的な学び」とは、ただグループ学習にすればよいという授業はダメですよ、生徒一人ひとりがテキストや他者や自己との対話を通じて考える授業にしなさい、ということです。

 「深い学び」とは、各教科の特質に応じた「見方・考え方*1)」を働かせなくてはいけない授業をしなさい、そのために「教える」場面と「考えさせる」場面をきちんを意識した授業を展開しなさい、ということです。

 若い先生方は、自作のワークシートを使って授業を進めることが多いようです。
 そこで、みなさんが毎日授業で使っているワークシートについて考えてみましょう。

 みなさんは、そのワークシートを使って、どういう力を生徒につけたいのでしょうか。
 授業の中で、3台のマシンの1台でも活躍する場面がきちんと盛り込まれているでしょうか。

 漢字や難語句、英単語・専門用語などの単なる知識を身につけさせたいのならば、書き取りや暗誦をさせたほうがより効果的でしょう。
 授業中にそれをやらせる時間はないのなら、それこそ課題として出し、次の時間に小テストをすれば済むことです。

 自分の考えを書き込む行為は、自分の考えをまとめさせるために書かせています。
 ならば、授業の流れの中で、それを全員に確実に書かせ、意見交換をさせ、発表させ、更に考えさせる授業になっているでしょうか。そうでないと「書かせる」目的は達成できません。

 「生徒にワークシートを埋めさせる」ことが、目的を達成させるための手段ではなく、それ自体が目的となってしまっている、ということはありませんか?
 生徒がワークシートを埋めるのは「主体的な学び」「対話的な学び」「深い学び」のいずれかをさせるための手段にすぎないのです。

 確かに、ワークシートがあれば授業をするのが楽、ということもあるでしょう。
 そしてパターン化されたワークシートを使っていれば、生徒も次にやることがわかるので安心、ということもあるでしょう。

 しかし、私たちの仕事は、誰もが授業で使え、どの授業にも応用できる普遍的なワークシートを作ることではありません。(それは業者に任せましょう。)
 私たちが創らなくてはいけないワークシートは、
 「学び」を成立させるゲッターロボでなくてはいけません。

 その授業の、その生徒にしか使えない特殊なワークシートが求められているのだと思います。

  *1) 各教科等の特質に応じた「見方・考え方」
 「見方・考え方」とは、「どのような視点で物事を捉え、どのような考え方で思考していくのか」という、物事を捉える視点や考え方のことです。
 例えばアジサイの花(?)が咲いているのを見て「なぜ色が変わるのだろう」と考えれば理科的な見方でしょう。「一つの塊にはいくつの花があるのだろう、とすると一本の木にはどのくらい咲いているのだろう」と考えれば数学(算数)科的な考え方となります。「花の色が変わるのを人の心に例えた文章もあるな。諸行無常まで悟ったのは少ないな」と考えれば国語科的、「この色をどう描いたらいいのだろう」なら美術科的ですね。
 この追究によって得られたる新しい知識や技能は、更に既習の知識及び技能と結び付くことで生きて働くものとなります。また、考えていくこと自体が、思考力、判断力、表現力等を豊かなものとしたり、社会とどのように関わるかの視座を形成したりするために重要なものとなります。
 「見方・考え方」を育てることは、その子の資質・能力を育て、資質・能力が育てば更に「見方・考え方」も豊かになっていくのです。


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 高校にとって、その生徒の卒業後の進路はとても重要です。

 なぜなら、その高校の評価は、卒業生の進路で
決まるという面があるからです。

 ですから、
 より偏差値の高い大学に一人でも多く進学させるためには、
 大学入試の変化に応じて、高校の授業も変わらざるを得ません。

 そして、より「優秀な」学生を求める高校は、
 当然、高校入試も変えていくでしょう。

 そのため、公立高校の入試も、
 大学入試を意識したものにせざるを得なくなります。

 高校入試が変われば、当然それを意識して、中学校の授業も変わらざるを得ず、
 中学校の授業が変われば、小学校の授業も変えざるを得ないのです。

 この雪崩を起こすことがオオトリテエの狙いです。

 去年、小学校の英語の授業にAIが搭載されたロボットが導入されつつあり、将来的にはALTに取って変わる可能性もあるという報道がなされました。産経新聞 2018.8.24
 また、大学入試の英語では「読む」「聞く」能力に加え、「話す」「書く」力を測定するため、民間の検定試験を活用するということはご存じの通りです。
 そして英語の限らず、これからのテストの解答方法としてCTB(Compyuter Based Testing)方式*1)が重視されてくるそうです。

 前に、AIの導入により銀行などでリストラが進んでいることをお話ししました。
 近い将来、私たちの授業も、知識・技能の伝達の側面はテスト作成や採点も含め、AIにとって変わられるかもしれません。
 昔ながらの授業はもう通用しないし、そのような授業しかできない教師は、もう必要とされない時代がそこまで来ているかもしれません。

 では私たちは、授業をどのように変えなくてはいけないのでしょう。
 これが教育改革の「三つの柱」の中の「どのように学ぶか(指導方法や教科書の改善)」です。

 文科省は、2014年「初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について(諮問)」の中で、次のように説明しています。

 必要な力を子供たちに育むためには、
 「何を教えるか」という知識の質や量の改善はもちろんのこと、
 「どのように学ぶか」という、学びの質や深まりを重視することが必要であり、
 課題の発見と解決に向けて主体的・協働的に学ぶ学習(いわゆる「アクティブ・ラーニング」)や、
 そのための指導の方法等を充実させていく必要があります。

 具体的に考えてみましょう。

 例えば理科の授業では実験や観察をします。
 教科書には、クックパッドに載っているお料理のレシピのように、実験や観察の手順が詳しく書かれています。
 おそらく全国の理科の授業では、教科書の手順どおり実験が行われ、同じような結果が得られているでしょう。
 今までは、そういった授業でよしとされてきた面があります。しかしこれでは、知識・技能を伝えたに過ぎません。
 これからは、実際に実験をやらなくても、AIを使ってシミュレーションすればいいという時代が来るかもしれません。

 大切なのは、その実験は何のために行うのか、です。

 目の前にある「不思議な」事象に対し「なぜだろう」と疑問を持ち、
 疑問を解き明かすために、理科の見方・考え方を働かせて科学的に思考し、「こうなんじゃないか」と予想や仮説をたて、
 そしてその予想や仮説が正しいことを証明するために観察や実験を行っているわけです。

 この事象との出会いから予想や仮説をたて、それを証明するための観察や実験を組み立てる一連のプロセスこそ、授業で最も重視しなくてはいけない内容だと思います。

 シミュレーションでなく実際に実験を行ったとして、もしも班どうしで実験結果が違ったら、(これはありがちなことですね。)
 それはなぜ違うのか、どちらが科学的に正しいのかを議論する……そんな授業もできそうです。

  *1) CTB(Compyuter Based Testing)方式
       試験における工程を全てコンピュータ上で行うこと、およびそれを行うサービスのこと。

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