十種神宝 学校の基礎・基本

公立の義務教育の学校に永きにわたりお勤めだった稗田先生の、若い先生方への昔語りです。学習指導要領や、それに伴って変わってきた先生たちの意識や授業のことなど、教育現場に起こってきた今や昔のことどもを書き記していきます。

 義務教育の現場に長くお勤めだった稗田先生からお聞きしたことどもを、拙いながらもまとめてみました。
 不易流行という言葉があります。この、教育の"流行"の中から、自分だけの"不易"を見つけていただければ、これに過ぎる慶びはありません。
                                   十種神宝 主人 太安万侶

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教師の心得

昔々、『大鉄人17』(石ノ森章太郎/毎日放送 東映)という巨大ロボットものの特撮がありました。
物語は、国際平和部隊・科学研究所の佐原博士が、あらゆる災害から地球環境を保全するためにスーパーコンピューター・ブレインを建造したことから始まります。
ダウンロード (1)巨大人工頭脳システム ブレイン
次第に自我と超生産能力を持つようになったブレインは
「人類こそが地球を滅ぼす。人類は地球にとって最大の災害であり有害」
という結論をはじき出しました。
そして「地球にとって最大の災害」である人類を抹殺すべく、
ブレインは巨大ロボットを何体も作りだしました。

そして17番目のロボットには、
動き回ることができるもう一人の自分として自我を与え、「ワンセブン」と命名します。
ダウンロード大鉄人17(ワンセブン)
しかし、17(ワンセブン)は、地球環境の保全に対し
「人類だけが地球を救える。人類は地球に有益」
と結論を出しました。

ブレインも17も、あらゆるデータにアクセスし高度な情報処理を行うことができるという点で同等の能力を持っています。
しかし導き出した結論は正反対のものだったのです。

さて、今回の学習指導要領の改訂で
「学力」という言葉はすっかり影を潜めてしまいましたが、
あえて「学力」という言葉を使うとすると、
今回の改訂で求められる「学力」って何でしょう。

「知識・技能」「思考力・判断力・表現力」「学びに向かう力・人間性等」を三つの柱として
「何ができるようになるのか」の視点から学習内容が決め出されているのが今回の改訂の特徴です。

「知識・技能」はインプットにあたるものでしょう。
それを効果的に処理するものが「思考力・判断力」であり、
アウトプットが「表現力」というわけです。
そしてこの流れの燃料として「学びに向かう力・人間性等」が考えられているのだと思います。

PISAや全国学調に代表されるような、
複数のテキストから、与えられた命題に対し自分なりの考えをまとめ、それを説明させる問題は、
この力の流れを再現したものです。

この力は、高い情報生産能力を純粋に求めているものだということがわかります。
そしてこの力は、現代社会が必要としている学力に他なりません。

学力観には二つの立場があります。

一つは、社会が必要とする力を学力とするものです。
この力を求めて近代学校が生まれました。

そしてもう一つは、子どもが人間として生きようとする力(自己実現を目指す力)を学力と考えるものです。
これは19世紀デューイ等の思想が根底にあります。

戦後の日本の教育は、この二つの学力観の間を揺れ動いたと言ってもよいと思います。

社会が必要とする学力にせよ、自己実現を目指す学力にせよ、
いずれも先人達が英知を結集して導き出した結論です。
どちらが正しいかを私たちは簡単に論ずることはできません。

同等の情報でも処理の仕方によって結論は正反対になることは、『大鉄人17』のエピソードを振り返るまでもなく、ありうることです。
そして正反対の結論を止揚することは、更に難しいことです。

例えば、社会が求める情報リテラシーを中心に考えると、
自我の成長に欠くことのできない感受性や想像力の育成は隅に追いやられます。

ブレインや17は、
人間以上の現実認識力(情報収集・処理能力)のもとに主体形成力を発揮し自我をつくりだした後に、
初めて結論を得ました。

しかし、学校で情報リテラシーに特化した教育ばかりを行っていれば、
与えられた課題に対する結論を導く力は身につくかも知れませんが、
その間にどれだけ感受性や想像力、ひいては自我を育てることができるか、
私は疑問に思います。

私たちは、ブレインや17が持った情報生産能力だけでなく、
自ら人間として生き、成長していく能力を育てることを忘れてはいけないと思います。


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新そばの季節となりました。各地で新そば祭りが開かれています。
ダウンロード
そもそも「新そば」とは秋蒔きのそばで9月から11月に採れたものを年内に食べる「秋新」と呼ばれるソバのことです。

じつは「秋新」に対し「夏新」というのもあり、これは6月中旬から8月中旬に収穫されます。
夏新より秋新のほうが味・香りが断然優れるため、あえて秋新だけが「新そば」と呼ばれもてはやされてきました。
最近はオーストラリア方面から輸入され、保存技術も格段に向上していますから、味の違いはそんなにないかも知れませんが、
やはり収穫されたばかりの「新そば」は高い香りはもちろんその味わいは何とも言い難いうまさを感じてしまいます。

そばは、かつては米の穫れない地域の救荒食物でした。
しかし江戸時代になって「粋」な食べ物として「文化」の域にまで高めた先人の知恵にはほとほと敬服します。

ちなみに、「そばは、そばとして純粋に味わって欲しい」というこだわりのお店もありますが、
私は「そば前」が大好きです。
そばつゆを使った卵焼きや上等な板わさなどをつまみに熱燗で一杯、というのはこれからの季節たまりませんね。

さて、新そばの季節だからこそ、もっとおいしくそばをいただきましょう。
「挽きたて、打ちたて、ゆでたて」がうまいそばの条件といわれ、これを俗に「三たて」といいます。
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製粉してすぐの粉を使い、打ったばかりの生地を包丁で切り、ゆで上げ、素早く水切りして出すそばがうまいのです。
少しでも時間がかかると、香りも味もどんどんと逃げていきます。

実際には、打ちたての場合のみ、包丁で切ったあとしばらく時間をおいて寝かしたほうが麺を打つ際に使った水が馴染み、ゆでが均一になってさらにうまいそばになると言われています。

そして、穫れたての野菜や果物がおいしいのと同じように、収穫したてのそばの風味は別格です。
淡く緑がかった新そばの時期は「三たて」ならぬ「四たて」の味が堪能できる絶好の季節です。

これはそばばかりではありません。
ラーメンなどは言うまでもありません。
伊丹十三は『女たちよ』の中で
「(スパゲッティは)温めたお皿に手早く盛り付け、まだ湯気が出ているうちにすぐ食べる(のが良い)」と言っていますし、
お寿司だって握ってもらったらすぐ食べる方が美味しいのです。

仕事も同じです。
「やらなくていいことはやらない。やらなければならないことは手短に」
というのは『氷菓』の主人公、折木奉太郎君の言葉ですが、
これは仕事の上ではあたりまえのことです。
ダウンロード (2)© 米澤穂信/京都アニメーション
それ以上に、やらなければならない仕事が発生してから、実際にその仕事を始めるまでにどのくらいの時間がかかっているでしょうか。

そんな時は、「困難は分割せよ」を参考に、仕事の優先順位を決め、効率化につとめましょう。

そばは伸びてしまったら、(食べるに値しないとまでは言いませんが)せっかくの新そばも台無しになるのです。
自分の仕事をマネジメントするのは自分しかいません。
伸びたそばを人に食べさせることだけはやめましょう。

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  • 30歳までにやるべきこと
  • 3年後に年収1000万円をかせぐ方法
  • 失敗しない子どものしつけ方
「こうすれば こうなる」…こういうことを主に書いたものは「ハウ・ツー」ものと呼ばれています。
最近は書籍ばかりでなく、料理の作り方などが動画でアップされています。
この手のものは、けっこう便利なものです。

本屋に行けば教育関係に限っていえば、
「指導要録の書き方」とか「生徒が身を乗り出す楽しい実験」「英語力を確実に身につけるには」「失敗しない子どものほめ方、叱り方」等々、
ハウ・ツー本のお世話になった方も多いのではないでしょうか。

最近の先生は本を読まない、と言われています。
全然知らない、見たこともない、という人は、この際是非どんな本があるか、本屋に見に行ってくださいね。

ハウツー本を読むことで、人の知らないであろう知識をいち早く知ることができたという喜びを持つことができます。
これハウツー本が求められる大きな理由な一つです。

本を読んだだけで知識が身に付いたというお得感から、次々とハウツー本を買う人も少なくありません。

ハウツー本は、本を読んだ後に自分の行動に置き換えて初めて成果になりますが、
本を読み切ったことで達成感を感じ、自分もなにかをやり遂げた気持ちになることもあります。
しかし、これは残念な人だと思います。

「こうすれば こうなる」…これは、私たちの知りたいところです。
指導案では主眼や仮説の骨組みになる部分とも言えます。
「こういう子どもに」がない……ということは、
「すべての子どもにあてはまる」ということですので、非常に一般化された指導法なのでしょう。

そして実際にやってみると、なるほど、子どもはそのように動くことが多いようです。
ですから、ハウツー本を読んだら、是非実践してみてください。

このような優れた実践…それはそれですばらしいものだと思います。
しかし、忘れてはならないことが一つあります。

それは「どういう子どもにする(どういう子どもを育てる)ための指導法なのか」という基本的な問いです。

例えば「計算問題が解けるようになる」ことは教育の目的の一つといるでしょう。
しかし同時に、計算問題が解けるようになることを通しどんな人間を育てるのか、と考えた場合、
手段であるとも言えます。

「校舎をきれいにする」なんていうのは、明らかに手段に過ぎません。

教育の目的はすべて子どもにかえっていくものでなくてはならないのです。

子どもを思い通りに動かすことは、教師の力量です。
しかし私たちは、それにおぼれてはならないと思います。
常に目的を見極め続けること……そして目的を達成する為に最も適した手段を選択すること。

そしてその成果は、すべて子どもに還っていくようにしなくてはならないと思います。

ハウツー本の中には、「どういう子どもを育てるために」という内容が希薄・浅薄な(私の読解力では読み取れない)ものもあります。
私たちは、教師の思い通りに動く「鉄人28号」を造ってはいけないのです。

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職場体験学習で、生徒に人気のある職場の一つにケーキ屋さんというのがあります。
将来パティシエになりたい、という夢を持っている子もいるのではないでしょうか。
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パティシエになるために必要な資格はありません。
一般的には専門学校(製菓学校や料理学校の製菓コース)や短期大学など、
学校で基本的な知識や技術を身につけてから求人を探す人も多いようです。

学校を卒業したあとに、
洋菓子の本場と考えられているフランスなどの料理学校への留学をめざしたり、
有名ホテルのパティシエ部門で修業を積んでキャリア形成をし、
将来が自分のお店を持つ
……というのが理想的な進路ですね。

ところで,まともなケーキ屋さんは売れ残ったケーキがあっても決して安売りをしません。

なぜでしょう。

それは、もし夕方に割引したら客は夕方にしか来なくなってしまいます。
それでは経営が成り立たないからです。

それに,そのお店のブランドイメージを傷つけます。
「売れ残りを割引」はやはりいいイメージはないですよね。

まあ中には次の日に前日の売れ残りを「本日のサービス品」として売ってるお店もありますが…。
25日のクリスマスケーキの比喩を考えればイメージがわきますね。

授業も同じです。

テスト直前に「ここ、テストに出るぞ」とテスト範囲の復習をやってあげたらどうでしょう。

確かに“復習の授業”でやった問題が出て点数が上がれば生徒は喜ぶかも知れません。
しかし「毎日の授業って、何だったの?」「テスト直前の“復習の授業”を受けていればいいの?」ということになってしまいます。

しかも復習で点数を上げることができるのは、所詮暗記が効く知識レベルの問題です。
知識以外は、類似の問題を教えて練習させるしか方法がありません。

“復習の授業”は夕方に売れ残りのケーキを売るケーキ屋さんと同じです。
毎日の授業でしっかり定着させることができなかった、積み残しの内容を安売りしているだけなのです。

その教科の先生方全員が申し合わせて知識のブラッシュアップのための“値引きセール”をやっているのなら問題はないと思います。
しかし、もし“値引きセール”を潔しとしない先生がその教科に一人でもいたとしたら…。

生徒はその先生をどう思うでしょう。
毎日の授業をどう思うでしょう。

私たちの使命は、生徒の点数を上げることだけではないと思います。
(まあ、そういう面もあることは否定はしませんが…それが第一義でないことだけは確かです。)

基本“復習の授業”を主に行っているのは塾です。
そして塾に先んじて学習を進め、学習指導要領に示される学力をつけるのが“学校”です。

テスト前の“復習の授業”というのは、
“学校”というブランドイメージを大きく損なう行為なのではないでしょうか。

現在“アクティブラーニング”という考え方が大きく取り上げられています。
指導要領から文言がはずされましたが…私は良い判断だと思いますよ。

アクティブラーニングというのは、
知識などを受動的に身につけることに対する痛烈な批判が根底にあります。
「考える力」とか「解決する力」とか、難しい事はよくわかりませんが、
一方的に教えるのが授業ではないよ、という考え方です。

“復習の授業”はこれに逆行しているような気がしてなりません。

みなさん、時間が余ったら
「テスト勉強の自習だよ」と言い、復習は生徒に任せましょう。
そしてテスト前に時間が余らないように、きちんと教材研究をして毎日の授業を充実させましょう。
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若いみなさんには、年に一回はフル指導案を書くことをお勧めしています。

なぜでしょう。
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授業はアーティストのライブステージと同じです。
ライブステージは、行き当たりばったりにやっているわけではありません。
二流以上のアーティストならば、お客の反応を細かに予想してステージが盛り上がるように台本をつくり、その台本通りに進めながら、更にお客の反応を見てアドリブで台本を変更しています。

お客はこの台本を意識することはありません。
アーティストに上手にノせられ、アーティストもお客のノリを利用して
ライブの盛り上がりを演出しているのです。

授業もまったく同じです。

そして指導案はステージの台本にあたります。
アドリブで何もない状態で、50分間授業をもたせるというのは、
プロのアーティスト(教師)ではありません。

みなさんは教育実習の時に指導案を書いたことがあると思うかも知れません。
私はかつて某国立大学教育学部の附属に勤務していました。
その時の経験から、教育実習生の指導案というもののレベルは十分に知っているつもりです。

更に指導案には、その地方、その組織独特の書き方があります。
それは、授業に対する主義・主張……いってみれば思想が異なるからです。

また各地方自治体にはそれぞれが主導して作成した形式があり、
その奥にはそれぞれの地方独特の思想があると私は考えています。

特に「生徒の意識を大切にする」という考え方は、
ライブステージでお客の気持ちの盛り上がりを大切にし、予測し、
ステージ(授業)の山場を演出していくのと同じだと思います。

そして、フル指導案というのは単元全体を見渡しての計画を記したものです。
一時間の授業は、それだけで完結するものではありません。

一時間の授業は、前の授業までの流れの上に成り立っています。
そしてその授業は次の授業からの授業に影響を与えます。
更に大きく、小学校の時に何を教わってきたはずなのか、高校に行って何をを教わるはずなのかを見通しての一時間の授業なのです。

これを縦の系統と言います。

そればかりではありません。

例えば、国語の場合、
1年生に「ダイコンは大きな根?」という単元がありますが、同じ時期に理科で学習する「葉・茎・根のつくりとはたらき」がどこまで進んでいるか、
2年生の「君は『最後の晩餐』を見たか」という単元で、遠近法や構図のとり方の指導はどこまで美術で習ったか、
3年生の「故郷」で、生徒は明治以降の歴史をどの程度知っているか、
これらを頭に入れて授業をしなくてはいけません。

これを横の系統と言います。

以上の教科指導の要素に、クラスの雰囲気等、生徒指導的な側面を加味して、
単元の計画や本時の計画をたて、それを言語化し可視的なものにしたのがフル指導案なのです。

こういうことがすべて頭の中に入っているというのは、
プロ中のプロ、大ベテランの先生でしょう。

そうでもない限り、
フル指導案が書けない、書いたことがない、というのは、
しっかり考えたことがない、というのと同義なのだと思います。

若いみなさんは、少なくとも数年以内には研究授業をやることになるのではないかと思います。
その時に「自分は教育実習でしか指導案を書いたことがない」とか「本時案の略案しか立てたことはない」と言って欲しくはありません。

完璧な指導案を創ることを考えるのではなく、
完璧な指導案を求め続ける気持ちを持っていただきたいと思います。

この気持ちが、より完成度の高い授業につながると考えるからです。

そのためには、まず指導案を書いてみることです。

そして指導案を元に、自分の授業を振り返り、
どれだけ自分が生徒の意識を見切ることができたかを確かめ、
更に教師としての技量を高めていっていただければと思います。

がんばりましょう。

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中学3年の国語に森鴎外の「高瀬舟」という作品が載っています。
images (6)© 日本文学シネマ制作委員会
  • 弟殺しで遠島の刑を受けた罪人・喜助を船で護送する役目を担った同心・羽田庄兵衛は、喜助の様子の常の罪人らしからぬ明るい様子を不思議に思いました。興味を持って話しかけた庄兵衛に喜助が物語ったその話の内容に、庄兵衛は納得すると共に感心の念さえ覚えてしまいます。さらにその犯した罪について話した喜助の身の上は、庄兵衛の心に捉えどころのない、そしてやり場のない思いと疑問を生じさせるものだった、
という話です。

喜助が犯した罪とは、病気を苦にカミソリ自殺を図った弟からカミソリを抜くことで結果的に弟を殺してしまったというものでした。

生徒は、遠島となった喜助に
  •  弟が苦しんでいるのを楽にしようとしてやったのに……
  •  弟に『殺してくれ』と言われて見るに見かねてやったのに……
と、主人公庄兵衛と同じような感想を持ちます。

現在の法律によれば喜助は、
「同意殺人罪により有罪。情状酌量により懲役2年執行猶予1年」の判決になるそうです。

同意殺人罪(刑法202条)は殺人罪の仲間ですが、殺人罪より少し罪が軽く、6ヶ月以上7年以下の懲役又は禁錮となっています。

なぜ殺人罪になるかというと、法律では
弟が死亡したという事実から遡って、その直接原因になったのは何かを考えるからです。

つまり、病気で苦しんでいる人を楽にさせようと首を締めたことにより窒息死したとすれば、
その病気が不治の病であろうと、放っておいても数時間後に死ぬことがわかっていようと、
死因が窒息死である限り、死の結果は首を締めた人がすべてを負わなくてはなりません。

ではそれをそそのかした者はどうなるのでしょう。

殺人の依頼者の場合、
「他人に犯罪を決意させて実行させる」教唆犯(刑法61条)となります。
ダウンロード (6)© さいとうプロ
例えばゴルゴ13に殺人を依頼し、ゴルゴ13が依頼を成功させれば、
依頼者は『殺人罪の教唆犯』になります。

更にヤクザの親分が部下の若い衆に殺人を命令するような場合は
「教唆犯の範囲を超えて、実行犯と同一視できる」とされ、
親分は『共謀共同正犯』(刑法60条)とすることもあります。

これは殺人者と同じ扱いです。

生徒間のいじめも同じことだとおもいます。
まず「いじめ」の事実から順番に遡って、事実を明らかにしていきましょう。

直接手を下した者は
  • 保護者を呼んで状況を説明する
  • 反省文を書かせる
  • ペナルティを科す
等、それぞれの学校の決まりに従い処分すべきです。

そして、いじめをそそのかした者、はやしたてた者も、
すべて共謀共同正犯として直接手を下した者と同様の罪に問われなければならないと思います。

「自分は手を下してはいない」「見ていただけだ」と言っても、
現在の法律では同じように裁かれる、ということを生徒に知らしめなくてはいけません。

そしてこれは、スクールカーストの上位者を裁く手段となります。

未成年の犯罪の場合、
10歳以下では責任能力がないと判断されますが、14歳以上ではあるとされるのが一般的です。
判例では、小学校卒業前後の12歳に境界線がひかれているようです。
中学生ですから、
  • 世の中は君たちに責任能力があると判断している
ことを知らせる必要があるでしょう。

そして未成年者ですから、第一義的には親に監督義務があります。
ですから
  • 学校としては、親に子のしたことを報告しなくてはならない
このことも生徒にしっかり理解させておくと良いと思います。

「いじめ」の事案が起こったら、しっかり状況をつかみ、
法の名の下に正義を示しましょう。

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  • 蓬(よもぎ)、麻中に生ずれば、扶(たす)けずして直し
これは「荀子」の言葉です。
「そのままではふにゃふにゃしてしまう蓬でも、ピンと立つ麻畑の中に生えれば、おのずとまっすぐに伸びる」という意味です。

ある先生の体験談から…

  • 中学2年生の担任をしていた頃、ある学級を受け持ちました。その中学校は2つの小学校の児童が入学してくるところです。小学校ではゴタゴタがあったのでしょうか。一年間、生徒の「仲間関係」を修復するために、私自身も生徒もとても苦しい思いをしました。学級の中にまとまりが出てきて明るい学校生活が送れるようになったのは3年生の後半になってからでした。卒業時にはみんな晴れ晴れとして自分の進路に旅立つことができましたが、担任としては密かに悩んでいたことがありました。それは勉強のことです。私が受け持ったその学級は,1年生から卒業するまでの間、いつのテストでも学年の中で常に最下位の平均点でした。
仲間関係がうまくいかなかった学級の成績が上がりにくいかったのはなぜでしょう。
(学級の平均点が低いクラスは仲間関係がうまくいっていない、ということではありません。念のため…)
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  • 勉強は『自ら学ぼうとする意欲』、言い換えると『やる気』によってその結果が左右されることがあります。この『やる気』は周囲の人(親,友人など)から【受容】されているという気持ち(私は受け入れられているんだという気持ち)によって形成されます。この【受容感】は,出生児の親に受容されていると言うことに始まり、幼児期・小学校・中学校での仲間関係の善し悪しで、高くもなり低くもなると思います。つまり、勉強の『やる気』は、自分の周囲の仲間関係で大きな影響を受けることが考えられます。(筑波大学 教育心理学博士 桜井茂男)
成績は、その子の仲間関係だけで決まるものではありませんが、無視できない要素なのです。
生徒同士が互いにすばらしい発想や意見を認め合う場面を毎日の授業でいかに仕組んでいくか、が
私たちに課せられた課題です。

「あの子はどうだ」とかいう偏見を打ち破り、
互いに認め合い高め合う授業を創造することは、
いじめのない教室を作ることにもつながると思います。

学級という“麻畑”を耕し育てるのは、
生徒が学校にいる時間のほとんどである授業です。

教科の授業を通じて、いじめのない学級を創ることは、
私たち教師の一人ひとりの使命だと思います。
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私たちが日々の暮らしの中で出合う、さまざまな疑問や困りごと、
「おかしいな」「納得できない」「なぜだろう」と思うできごと。
記者に伝えることで、ヒントや答えが得られるかもしれません。
あなたが寄せてくれた情報を出発点に記者が取材し、記事にします。
一人一人の声と記者がつながることで、地域や社会を変える力が生まれます。

「筆算の線、手書きなぜダメ? 小5が160問「書き直し」命じられる 指導の背景は」(西日本新聞)をはじめ、
「重過ぎる通学かばん12キロ 中学生『つらい』ロッカー狭く置き勉困難」(河北新報)
「『ブラック校則』私もNO 果敢に見直し挑んだ女子高校生」(神戸新聞)等々、

ここのところ、市民のみなさんの声が新聞に取り上げられる世の中でござんす。
ダウンロード (1)
  • 古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます。どこに新しいものがございましょう。生れた土地は荒れ放題、今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃござんせんか。(「傷だらけの人生」藤田まさと作詞・吉田正作曲)
昔は担任の先生に何か言いたいことがあるときは、直接言いに来たもんでござんす。
言いにこれねぇときゃぁ、連絡帳で「お恐れながら…」と。

しかし今じゃ、校長先生を飛び越して直接教育委員会へ……。
いえ、直接世間様へ訴えるほうが手っ取り早いってぇ時代なんでしょうかねぇ。

そういやぁ流行語大賞になった「保育所落ちた日本死ね」もツイッターがもとでござんしたね。

LINE、専用フォーム、Fax、郵便と、
いろんな方法で市民のみなさんの声を集めて面白おかしく記事にするのが新聞社さんの渡世でござんす。
新聞社さんが市民のみなさんの声を集めるってぇのをどうこうしようってぇんじゃぁありません。

しかしケータイやネットを使ってってぇ方法はどうなんでございましょうねぇ。

昔は筆をなめなめ、考え考え巻紙に文章を書いたもんでござんした。
そういっちゃぁ失礼ですが、
メールなんかは思いついたことをそのまんま垂れ流しちまうこともあるんじゃぁねぇんでしょうか。

私たち教職員も「バッシング」を受ける身。
世間様からお叱りを受けることは覚悟でござんす。
「学校に言ってもラチがあかねぇ」ってぇ対応をしてるってぇところもあるかも知れません。

ツイッターなんかにゃぁ、もっとひでぇことが書いてあります。
一端火が付きゃぁ、どうなるか……。

そんな世の中、手前(てめぇ)で手前を守るなんてこたぁできません。

くだんの筆算だって、どうやらせるのか、どう評価するのか、教科で相談して勝手なマネをしねぇ。
何かあったらホウレンソウ。
組織としてのスジを通しておきゃぁ、責任を負うのは組織です。

みんなで対応してくれるじゃぁねぇんでしょうか。

情報の持ち出しだって、非違行為だって、自分を守る代償と思やぁ、簡単なことでさぁ。
ハードルが高けぇからこそ、しっかり守っていりゃぁ
「お前ぇ一人に罪は負わせねぇ」って、みんなから守ってもらえるんじゃねぇんでしょうかねぇ。
 
  • なんだかんだとお説教じみたことを申して参りましたが、そういう私も日陰育ちのひねくれ者、お天道様に背中を向けて歩く、馬鹿な人間でございます。(『傷だらけの人生』既出)
鶴田さんみたいに強くは生きられません。皆で肩寄せ合って生きていきましょうゃ。
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関西電力の役員が、原発のある福井県高浜町の元助役から多額の金品を受け取っていた問題はご存じのことと思います。
この問題について関西電力は調査委員会を立ち上げ調査をしましたが、
「内部の調査ではダメだ」と言われて、会社から独立した社外委員(弁護士)のみから構成される第三者委員会を設置し、調査をし直すことになったことは
ニュースなどでもご存じのことと思います。

内部の調査では誰も信用してはくれないのです。

これは、私たちの授業についても言えることです。

授業は「教師」と「生徒」と「教材」とで成り立っています。
教師は生徒を評価し、生徒は教師を評価しています。
(教材は生徒と教師の両方から評価されますが、教材を選んだのは教師ですから、教師に評価は返ってきますね。)

では授業そのものは誰が評価するのでしょう。

「観世座」という劇団の役者兼オーナー兼プロデューサーであった世阿弥は、劇団存続のためにはどうしたらいいかを考え抜きました。
役者の修行方法から、いかにライバル劇団に勝ち、観客の興味をひくにはどうすべきかなど、
後継者に託す具体的なアドバイスを記したものが、彼の伝書(『花伝書』など)です。

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 その中に「離見(離見の見)」という言葉があります。
自分の姿を距離をおいて観察すること、演者が観客の立場で自分の姿を思い描くこと
と言われています。

自分の姿を常に客観的に眺め評価し続けることの大切さをいっているのですね。

「自分の姿」を「授業の姿」と考え、
「人気」を「評価」と考えてみましょう。

「観客」は誰でしょう。

私たちは「授業」をいかに成立させるかに心を砕いています。
いってみれば「授業(教室)」という劇団の役者兼プロデューサーです。

授業は「生徒」と「教師」と「教材」とで成り立っていると言いました。

教師も生徒も「授業」を構成する要素であって「観客」ではありません。
教師は生徒の、生徒は教師の評価しかできないのです。
教師も生徒もその場では「授業の姿」を評価できないのです。
(それ以上に観客として振る舞う生徒いたら、それだけでその授業はアウトですね。)

「授業」全体を観客の立場で評価できるのは、
「授業」というフィールドから離れたところにいる人だけです。

だからこそ「離見」と呼び、その気持ちを持ち続けることが大切なのですね。

「よい授業」であるかどうかは、自己満足は論外、生徒の評判などで決めてはいけません。

1時間で生徒がどのように変容したかを測定するのが適当だと思います。

「20年後、30年後にその成果が現れるのが教育だ」と言う人もいますが、その時誰も責任をとることができません。無責任な発言だと思います。

そして、その評価を下すのは、「教師」と「生徒」以外の第三者……
参観者」以外にいないと思います。

参観者の目」を常に意識し続けることが離見であり、授業を向上させる条件だと思います。

授業を公開し自分の授業を参観者の目にさらすことは大切なことなのです。

そして、常に参観者の目を意識した授業を行うことは、
常在戦場の心にもつながるものであり、
私たちの授業の技量を伸ばすと思います。
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私は、学校からの配布文書を、それぞれの学校毎に全部保管しています。
4月から現在までためると4㎝以上の厚さになりました。
500枚程度の分量になるでしょうか。

その一枚一枚に
「この文書はどう書こうか」「わからない人いないかな」というような
作成者の気持ちがこもっているかと思います。

一方受け取った側も
「これはとっておかなくては」「いつか使うかも知れないな」と思って、
捨てずにおくことも多いようです。

しかしせっかく取っておいても
「いざ」という時にどこかに行ってしまって机の上を探し回り、
挙げ句の果てに「教頭先生~、どうなっていましたっけ~?」なんて会話が交わされ、
貸してもらった書類をコピーする、というようなことがあります。
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修学旅行等の学校行事で
「先生~、次は何するの~?」と生徒に問われ
「しおりに書いてあるぞ(`ヘ´) プンプン。」という会話とそっくりですね。

一度知らされた内容を再び誰かに聞くのって、どうなんでしょう。

印刷し、その内容をもう一度コピーする……。
生徒数400人くらいの学校で一年間に使われるインク代・紙代は、それぞれ50万円前後、
合わせて100万円ほどになるそうです。(コピー代は別)

紙で配られたものがいざという時に使えない、というのは、
時間の無駄であると同時に、お金の無駄でもあります。
学校の予算は必ずしも十分とは言えない現状では好ましい姿とは言えません。

そこで既に、印刷代の節約を目指し、既に職員会議の文書をペーパーレスにしているところもあります。

私の経験からすると、置きっぱなしの書類のほとんどは捨てても問題がないと思います。
そして、どこにあるか探すのは時間の無駄です。
ダウンロード (1)

これらの文書はサーバー上にあれば十分です。

必要な書類だけ、PDFでクラウドに上げてしまえば、いつでもどこでも見ることができます。
紙で配られても、今はスマホで保存できますよね。
本当に必要な人だけが印刷出力すれば良いのではないかと思います。

ただし、以下のことには注意しましょう。

重要な書類はデータ化できない場合がある

例えば、文書管理規定などに従い、公文書は保存しなくてはいけません。
詳しくは事務の先生へお尋ねください。
外部から来た受領印のつかれている文書は
きちんと引き継ぎができるようにペーパーベースで保存していたほうが良いと思います。

画面の大きさによって見やすさが左右される

特に細かい文字などは、タブレットならよいのですが、スマホでは苦しい場合があります。

メモの自由度が低い

特に指導案などは、各項毎に密接な関連を持って書かれています。
例えば
本時案を見るときは「指導(研究)の重点」に書かれていることがきちんと具体化されているか等、
傍線などを引きながら読むことは当然のことです。
データに直接書き込むよりも紙の方がずっと便利です。

システム、ネットワークなどの影響を受ける

個人で使うクラウド等の不具合があれば、ニュースになります。
そのくらい珍しいことです。
セキュリティも、Evernoteやドロップボックス、Googleドライブなどは、
学校のサーバーよりもずっとしっかりしているでしょう。
学校のサーバーの不具合……これは学校が心配することです。

ITに不慣れな人には使いづらい

その通りです。
しかしこの言い訳が通用するのは、定年退職を迎えたり間近な人だけです。
若い方が「不慣れですので」というのは通用しないと思います。
「ITができない」は言い訳にすらなりません。
企業では「ITは、できるようになるために自己投資して自分で習う」のが常識です。
  


学校のシステム全体をどうこうするのではなく、
まず自分に何が出来るのかを考え、実践していきましょう。

「思うにペーパーレスとは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。
それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」
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